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ベトナム歴史秘話:あんなん国酔夢譚~226年前のホーチミンで国王に会い帰国を果たした漂流者達~

18世紀末、鎖国下の日本において海外を訪れた数少ない人々は、船舶の漂流者達です。漂流し辿り着いた場所の権力者から援助を受けて日本へ帰国できたといえば大黒屋光太夫が有名であり、彼の物語は後に「おろしや国酔夢譚」など小説や映画にもなりました。

しかし漂流者が流れ着いた先は、北方だけでは無かったはずです。同じ時代、南方に流されベトナムへと辿り着き、国王に会って援助を引き出すことに成功し日本帰国を成し遂げた、そんな出来事の存在はあまり知られていないでしょう。

彼らは当時のベトナムで何を見たのか?そこはどんな世界だったのか?どうやって意思を伝えコミュニケーションをとって帰国できたのか?

今回は、日本の国立公文書館・国会図書館などで保管・公開されている当時の記録から、歴史に埋もれた日越交流を紹介したいと思います。

1. 日本人漂流民がたどり着いた先はベトナムだった!

冒頭にあげた大黒屋光太夫がロシアから日本へ帰国して2年後の1794年8月23日(寛政6年、以下日付は旧暦)、東北の石巻港(現宮城県石巻市)より一隻の船が出航します。船の名前は大乗丸、船頭の源三郎を含め16名の船員と江戸へと運ぶ2600俵もの米を積んでいました。途中風待ちをして8月27日に再び外洋へ。しかし8月30日に房州沖で荒天に遭遇してしまいます。

弁財船

当時の輸送船(弁財船・千石船)、構造上嵐には弱かった

帆柱を切り落とし半数の米を捨てて軽くしたことで船の沈没は免れたものの、コントロールを失った船は漂流をすることになります。飲み水に欠き雨乞いをしたり、再度荒天に遭遇するなど過酷な漂流をすること約3ヶ月半、閏11月20日にようやく島を見つけて近寄りますが座礁して浸水。壊れた船を捨てて上陸するも、なんと人家もない無人島でした。茫然とする彼らは、神仏に祈ります。すると翌21日の朝に偶然一隻の漁船を発見し、島に呼び寄せることに成功。その船には5人が乗っていました。

西山漁船

漂流者たちが記録に残した漁船の絵、ベトナム語でトエン(小舟などを意味するthuyền)という発音も記録している

漁船の5人を中国人と思い「日本人」と書いて筆談を試みると、相手(老人)はそれを読んで「ニヤッポン」と発音し、ここはどこの国という意味で「何国」と書くと相手は「安南国」と書きます。長期の漂流で日本から遠く離れた安南国、現在のベトナム中南部まで流されていたのです。

16人は、この漁船に助けられ人が住む島へと移り、そこでこの地は、西山(サイサン)ということを知ります。12月1日、地場の役人から指示を受けて船頭の源三郎が出発。12月3日に到着した先は、国王のいる王都でした。

西山役船

そして彼は安南国王に謁見し、帰国の援助を得るために漢字を使った筆談によるコミュニケーションを試みることになります。

2.  安南王都の場所および国王とは誰なのか?

記録には国王の名前や都市名が出てきませんが、それを推測するにあたって彼らが訪れた1794年末のベトナムの状況をまず説明しましょう。

近世ベトナムを治めていた後黎朝は、18世紀になると既に弱体化し皇帝が名目上のものとなり、北部は鄭氏による東京国(トンキン)、中南部は広南阮氏による広南国(クァンナム)が実質支配するものの両国とも腐敗や重税で疲弊していました。

1771年に中南部の西山(タイソン、現在のクイニョン付近)で広南阮氏とは無関係の阮氏3兄弟による反乱が起こり、1777年に一人生き延びた阮福暎(Nguyễn Phúc Ánh)を除いて王族や重臣は皆殺しにされて広南国は滅亡します。そして東京国や後黎朝も滅ぼされ、西山朝がベトナムを支配しますが、3兄弟の内2人がそれぞれ皇帝を名乗るなど分裂してしまいます。

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緑が阮福暎、オレンジが西山朝のクイニョン政権(泰徳帝)、藍色が西山朝のフエ政権(光中帝⇒景盛帝)の各支配エリア。Wikipediaより

そんな中、フランス人宣教師ピニョーの援助を受けた阮福暎は、1789年に嘉定(ザーディン)の奪還に成功。西山朝フエ政権の皇帝である阮恵(グエンフエ、光中帝)は、阮福暎を倒すべく南部へ軍を送ろうとしますが1792年に脳卒中で亡くなり子の景盛帝が後を継ぎます。また1793年には西山朝クイニョン政権の泰徳帝が亡くなると子は即位できずフエ政権側に吸収されてしまいます。一方で南からは、阮福暎によって徐々に領土を奪われている状況でした。この時、阮福暎が都としていた嘉定(ザーディン)は、サイゴン・現ホーチミン市となります。

後の1802年には西山朝が滅ぼされベトナム最後の統一王朝グエン朝が成立、阮福暎は嘉隆帝(ザーロン帝、在位: 1802年 - 1820年)となります。余談ですがこの時に越南=ベトナムという国号を中国皇帝から送られているので1794年時点では、まだベトナムという国名が無い時代でもありました。

さて日本人漂流者が会った国王は誰なのか、西山(サイサン)とあるのは、西山朝のことなのか?王都はどこか?その答えを解くカギが漂流民の記録にあります。

国王の年齢

まず王都ですが高さ15~18mの物見台から眺めても四方に山が見えず、遠くに微かに何か見えるくらいとあり、現ホーチミン中心部の地理的環境と一致します。そして王の年齢が32歳とあり、阮福暎は1762年生まれなので1794年の時点で年齢も一致します。また現在が景興56年であると書かれており、これは漂流民が滞在していた翌1795年となります。景興は、広南国が形式上仕えていた後黎朝最後の皇帝の元号であり、一般的には1786年(景興47年)の後黎朝滅亡まで使われていました。

西山朝では当時、”景盛”という元号が使われていたものの阮福暎としては憎き西山朝の元号は使わず、自らの支配地域では景興の元号をそのまま使い続けていたのです。

サイサンに関する説明

そして漂流先で西山と示した理由について記録には注釈で説明もされていますが、ちょうど前年1793年に泰徳帝が亡くなりクイニョン政権の支配地域は、新たに阮福暎の安南国の支配下に入りつつも、地域名としてはまだ西山と名乗っていたという当時の複雑な社会事情が見えてきます。

これらのことから漂流民は、今から226年前の現ホーチミン市を訪れてベトナム史がまさに変わる時代を見聞きし、後の嘉隆帝とも会った唯一ともいえる日本人でした。

3. いざという時に身を助けたのは、ある本だった!

さて話は戻りますが日本人漂流者と安南国王とのコミュニケーション方法です。日本も安南国も支配階層では漢文の読み書きができました。しかし漂流者たちは一般庶民であり、ひらがなと簡単な漢字は読み書きできても漢文による意思疎通までは難しかったはずです。

そんなときに役立ったものがありました。大乗丸の所有者は船頭の源三郎でしたが、船長の役割を果たす沖船頭には清蔵という人物がおり彼は出航前に石巻の書店で2冊の書籍を買い船内でも時間があれば読んでいたと言います。そしてこれらの書籍こそが日越の意思疎通に役立ったアイテムでした。

倭漢節用無双嚢

1753年(宝暦2年)発行「倭漢節用無双嚢」(画像は1784年=天明4年の物)

大大節用集萬字海

1758年(宝暦7年)発行「大大節用集萬字海」

豊富な挿絵や図を元に、漢字に加えてひらがなも併用して解説された百科事典の様な書籍です。そして、これなら絵と漢字を指さすことでお互いに意図を伝えることができます。

このような書籍は、当時のベトナムには無かったようで、国王(阮福暎)に懇望されて献上したとあり、それが帰国への協力や援助にも繋がったものと考えられます。

大大節用集萬字海2

「大大節用集萬字海」には日本の地図なども載っている

またこの事からもう1つ驚くのは、当時の日本人の識字率の高さです。武士や役人といった支配階級ではなく一般庶民の沖船頭であっても、漢字入りの文字を読むことができ自費でこのような書籍を買っていた、そして石巻という地方の中小都市でもこういった書籍が流通していたというのは、当時の一般的な日本人の知識レベルを知るうえで大変興味深い事例ではないでしょうか。

4. 日本人が見た18世紀末のベトナム・ホーチミン市

国王と会った後、残りのメンバーを呼びに行き全員で再度王都へと戻り、約4ヶ月ほどを同地で過ごすことになります。国王から銭50貫文の金銭援助をうけることに成功し、番人(警備員)2人、医師1人、通訳(中国人、ほとんど役には立たなかったとある)1人、小間使い1人が付いて生活をサポート。外出もでき、遠路の場合は番人が付き添って警護と案内をしてくれるといった一見恵まれた生活でした。

しかし後年フランスの植民地入植者たちをも苦しめた風土病(マラリア、デング熱、赤痢)が漂流で疲弊していた彼らを襲ったのでしょう。清蔵を含む6名が病死してしまいます。ちなみに彼らは今も現ホーチミン市の大地に眠っています。そんな環境下でも生き残った人達は、積極的に現地を見て回り帰国後、絵図を含めて多くの記録を残しています。

18世紀末に日本人が見たサイゴン

日本人が記録した1794~95年頃の安南王城(サイゴン、現ホーチミン)の地図。左右の大きな川がサイゴン川で上部が現ホーチミン1区考えられ、外国船が停泊していたとも書かれています。

サイゴンの街並み

安南王城(サイゴン、現ホーチミン)の街並み。鱗の様な瓦の形が特徴的で、今でも古い建物などで同じ様な瓦の形を目にすることもあります。

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漂流し異国で援助を受けつつ帰国を待ち望む身でありながらも花街、遊女町までしっかりと見聞きして記録に残しているのは、さすがの探求心ですね(笑)

安南川口

安南川口、現在のドンナイ川河口で南シナ海との合流地点であるガンライ湾、ブンタウ付近の様子です。

18世紀末ベトナムでの通貨

現地で流通していた通貨。太平通宝は北宋時代、順天元宝は唐の時代の通貨で中国から輸入されたものであり、景興通宝は後黎朝の通貨。金銀はあまり見かけず銅銭が広く使われていたと記録しています。

永長寺

安南王城(サイゴン、現ホーチミン)中心部から、乾(西北)の方向に約1里(4km)離れた場所にあったという永長寺。禅寺のため臨済宗と書かれており他にも興隆寺というお寺があって観音像などを祀っていました。また宗教行為として除夜には、家々で関帝(関羽)を祭って肉を供えて灯をともしているともあります。

ベトナムの刑罰

日本人が見た刑罰、当時罪人にはこんな梯子を首に枷として嵌めていました。

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参考までにこの30~50年後、グエン朝がキリスト教の弾圧を行ったときの絵でも、宣教師の首に同じ枷をはめています。

ベトナムの駕籠

当時ベトナムの駕籠。棒の間にハンモックがかかっており寝ながら移動できるものです。

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なお約100年後、19世紀末の写真も見つけました。

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現代でも観光地にあったら、体験してみたい人がたくさんいそうな乗り物ですね。

5. 日本人が記録した18世紀末のベトナム語発音

彼らは、数多くのベトナム語を聞き取り、漢字にカタカナで書いてその音を記録しています。例えば数字。

ベトナム語200年前と比較

左が現代ベトナム語で右が226年前に日本人が聞き取った音です。ほぼ同じですが、9は当時「ゼン」(別資料ではセン)と記録に残っていて興味深いです。当時のホーチミン市では発音が違ったのでしょうか?なお6は別資料では「サヲ」となっているので「ロヲ」は書き間違いと思われます。

6. 漂流民たちのその後

最後に帰国方法です。当時安南国では、日本と国交がなくまた戦争中で日本まで使節を送る余裕もなく、北には敵対する西山朝がいて陸路で中国(清)へ行くこともできない状況でした。しかし既に述べたように当時の安南王城(サイゴン、現ホーチミン)は、外国船も停泊するような国際港でもあります。そしてちょうど中国のすぐそばマカオにまで行く船が現れ、国王はそれに乗り込むよう指示をします。

1795年4月24日、生き残った10名の漂流者たちを乗せた船が出発しマカオへと向かいます。国王からは、移動中の食料として白米16俵が渡され、さらに送り状(漂流の事実や日本へ向かうことを希望していること記載した公的書類)も手にしていました。

帰国の書状

5月5日にマカオへ到着し、しばらく滞在した後、中国の広東へ。広東で1人が病死するものの当時の中国には、漂流民送還制度があり江西、乍浦を経由して、2手に分かれた帰国船は11月22日と12月20日に長崎へ到着し、彼らは約1年4ヶ月ぶりに日本へと帰国します。

しかし漂流という止む得ない事情であっても鎖国下に国禁を破って海外へと出かけた彼らがすぐに故郷へ帰ることもできず、長期の取り調べを受けることになります。船頭の源三郎は長崎で取り調べ中に無念にも病死し、約2年後に故郷へ戻ることができたのは、出航時16名中の半数である8名でした。

彼らの記録は、後に北方を探検し「大日本恵土呂府」の木柱を立てることで有名な近藤重蔵によって1796年(寛政8年)安南紀略藁としてまとめられます。また1798年(寛政10年)には、柳枝軒により南漂記として一般向け書籍が発行されるも異国事情を描いたものであったので翌年に発禁、鎖国下の厳しさが分かる出来事です。しかしこれらの文献は、後に明治政府によって収集され、現代に伝わることになります。

南漂記

さて故郷へと戻った8人ですが当然ことながら2度とベトナム・安南国の地を踏むことはありませんでした。

他の異国への漂流者たちと同様、見聞きしたことは自由に口外できず、故郷の家族や友人にこっそり話しても誰もイメージがつかない異世界での体験。苦難の漂流、見聞きするもの全てが目新しい生活環境、一緒に帰ることができなかった仲間への想い・・・そして代わり映えしない故郷での日常。いつしか彼らも往時の出来事をまるで酔った時に思い描いた一夜の夢物語、酔夢譚であったとして受け入れていったのかもしれません。

そして日本人が再びその地を踏むのは、彼らが帰国して69年後の1864年。既にそこは安南国ではなく、フランスの植民地サイゴンとなってからの事でした。

7. その他の歴史記事

8. 今回の記事作成にあたり参考にしたサイト&文献

国立公文書館:安南紀略藁

国立公文書館:第2章 近世の交流

国立国会図書館:南瓢記5巻/枝芳軒著(寛政9序,同10刊)

漂流 -- 異界を見た人たち -- 早稲田大学図書館企画展

石巻市文化財だより 昭和49年度文化財調査概報

ふるさとのかたりべ49号:大乗丸漂流記「安南国漂流人帰国物語」

歴史評論2005年8月号:海民と節用集

近世ベトナムの日本町と日本人漂流民:嶋尾稔(慶應義塾大学言語文化研究所)







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