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私が12年間新体操を続けることができた理由

1.はじめに

私は小学1年生の頃から高校3年生までの12年間、新体操を続けてきました。練習頻度はほぼ毎日。夏休みも冬休みも小学4年生頃からはほぼ休みなく、新体操の練習に捧げてきました。このような話をすると、「辞めたくなったことはないの?」と聞かれることがありますが、もちろん辞めたくなった時期もあります。それでも何とか続けてこられたのには理由があります。今回はそれを書き綴っていきたいと思います。

2.新体操を始めたきっかけ

小学1年生になった春、私は母と一緒に地域のお祭りに遊びに行きました。そのお祭りのステージで自分の少し上ぐらいのお姉さんたちがバトントワリングの演技をしていました。好奇心旺盛で踊ることが好きだった私は母に「これ、やりたい!」と打ち明け、バトン教室を探してもらいました。しかし、なかなか見つからず、「新体操教室ならあるよ!見学行ってみる?」と言われ、当時新体操とは何か、あまりよくわかっていませんでしたが、とりあえず見学に行ってみることにしました。すると同い年ぐらいの女の子たちがロープを使って、いろいろな技を繰り広げていました。その姿がとても楽しそうで、私は「やりたい!」と即決。このように何となく「楽しそう」で始めた新体操が、まさかその後12年も続くなど、当時は全く想像もしていませんでした。

3.試合で入賞する喜び

初めて試合に出場したのは、新体操を始めて半年後のことでした。試合デビューは早いほうだと思いますが、これは上手かったからではなく、たまたま私が所属していたクラブチームからの出場選手が少なく、「出たい人は出て良いよ」とコーチに言われたため、何となく楽しそうだからという理由で出場を決めたのでした。したがって、当時は演技するだけで精一杯で、もちろん入賞なんて全然できませんでした。

 しかし、それから約3年後、父の転勤の影響で別のクラブチームに所属していた私は、そのクラブチームの試合形式の発表会で初めて金メダルを手にしました。それがとても嬉しくて、めちゃくちゃはしゃいでいたのを今でも覚えています。また、その翌年の小さな試合でも入賞して表彰台にのぼることがあり、もっと入賞したい!メダルが欲しい!上手くなりたい!と思うようになりました。

4.初めての団体でメンタルボロボロ……

小学校を卒業すると、私は新体操部がある私立の中高一貫校に入学しました。それまで個人演技しかやったことがなかった私はここで初めて団体演技に挑戦することになります。新体操の団体は5人1チームで2分30秒の演技をします。1分30秒の個人演技と比べて少し演技時間が長く、自分以外の4人と息を合わせて演技しなければならないため、体力と神経を使います。小学生の頃に個人演技ではそこそこの成績を収めていたため、ある程度の自信があったのですが、団体演技は全くの別物で、とても苦戦しました。個人演技であればすぐ覚えられるはずなのに、団体演技ならではの技も多くあり、なかなか振りも入らない。個人演技とは違って、1人のミスが全員の責任になる……。また、当時、中学1年生の新入部員は私以外にいませんでした。そのため、周りは全員先輩。毎日ビクビクしながら部活に行っていました。また、この新体操部でやっていけるのかすごく不安でした。しかし、入部してから約2か月後、中学3年生の先輩の座をいただき、レギュラーメンバーに選ばれることになります(嬉しかったけど、ちょっと怖かった……笑)。

5.新体操界のレジェンド!山崎浩子さんとの出会い

レギュラーメンバーに選出されてからは、先輩たちにしごかれながら、なんとか近畿大会に出場するなど、そこそこの成績を収めていました。このころはとにかく先輩についていくのに必死であまり新体操を楽しんでいた記憶はありません。しかし、それから数か月後、私の新体操人生にとって一つ目の転機が訪れます。それが山崎浩子さんとの出会いです。
毎年、新体操の団体日本代表のフェアリージャパンのメンバー選考会が行われるのですが、私は中学1年生の冬に参加することとなりました。ここでは、全国から新体操選出が集まり、現役のフェアリージャパンのメンバーが中心となって、オーディションが行われます。当時、私は、自分なんかが選ばれるわけないと思って、純粋にそのオーディションを楽しんでいました。目の前で、オリンピックや世界大会で活躍している選手が見られるだけでとてもテンションが上がりました。また、現在、美人過ぎる元新体操選手としてメディアに出ている畠山愛理さんも当時フェアリージャパンのメンバーで、ボールの簡単な技を直々に教えていただきました。本当に夢のような時間を過ごしていたなと今でも思います。しかし、私はこの選考会のラストの結果発表の際に、当時フェアリージャパンのコーチをしていた山崎さんに言われた一言に、はっとさせられました。

「自分に自信のない人はフェアリージャパンには要りません。」

怖かった。この時の山崎さんの目が。心の底からそう考えているのが伝わりました。

結果的に私は選ばれませんでしたが、当然だと思います。なぜなら、"自分なんかが選ばれるわけない"と考えていたのですから。しかし、私は山崎さんのこの一言で自分を変えようと決意しました。自分に自信を持とう持てないなら自信を持てるようになるまで練習しようと。また、よく考えてみれば、両親にお金をかけてもらって、コーチに指導していただいて、周りのメンバーに支えてもらって、友達に応援してもらって、新体操ができているというのに、自分に自信がないなど失礼な話だとも思いました。たくさんの方々に支えてもらっている以上、自信をもって試合に臨めるようにしなければと思うようになりました。

6.初キャプテンで疲労困憊しながらも初の全国大会出場へ

中学3年生になり、私はチームのキャプテンを任されることとなりました。これは、私がキャプテンに相応しかったからではなく、私以外の中学3年生がいなかったからです(笑)。それまでの人生で人を引っ張っていく立場に立ったことがなく、また、のんびりとした性格でリーダーシップをとれるような人間ではなかった私にとって、苦労の多い1年でした。自分が指示しないと練習が進まないし、上手くいかなくてコーチに叱られ、泣きながら帰ることも少なくありませんでした。しかし、周りの団体メンバーとクラスの友人たちには本当に恵まれていたと思います。メンバーは皆、1つ下で1人1人のレベルも高く、素直で良い子たちでした。また、クラスの友人たちは、私が部活で疲れてあまり笑えなくなってしまったときも「疲れてるんだね、たまには休みなよ」と声をかけてくれる本当に優しい人たちばかりでした。このような人たちに支えられたおかげで、この年の夏、奇跡が起きたのです。

全国中学校選手権大会(以下、全中大会)への切符が掴めるチャンスがある近畿大会。全中大会に繋がるとはいえ、実際に全中大会へと進んだ先輩をこれまで見たことがなかったため、自然と私たちの中では近畿大会がその年の一番大きな試合という認識がありました。当然私もその認識でいたため、その年の集大成をこの大会で見せつけるんだという想いで「落ち着いて、自信を持って、最後まで楽しんで演技しよう」と声をかけました。「自信を持って」というのは口癖のようによく言っていた気がします。山崎さんに言われた言葉でもあり、実際自信を持ってやるだけで本当にいい演技ができるということを、山崎さんに出会ってからのこの1年半の間に学んでいたからです。そして本番。全くミスすることなく、嘘みたいに良い演技ができたのです。私たちはもちろん、コーチも高校生の先輩方も泣いて喜んでくださって、本当に嬉しかったです。「本当に良かったね」なんて完全に終わった気でいると、その試合の結果は3位入賞。全中大会への出場権を獲得していたのです。全中大会なんて聞いたことはあるけど、見たことのない世界、夢のまた夢だと思っていたため、現実を信じられませんでした。あとから聞いた話ですが、私たちの府県が全中大会に出場するのは10年ぶりだったようです。学校の先生方からも祝福されて本当にすごいことをしてしまったんだなと実感しました。
そして数か月後の全中大会。このときは出場できただけで嬉しかったため、良い結果を残すというよりは思い出作りという感じで出場していました。とはいえ、出場するからには自分たちの納得する演技をしたい!いつも通り「落ち着いて、自信を持って、最後まで楽しんで演技しよう」とメンバーたちに声をかけ本番に臨みました。全国という大きな舞台で足がすくみ、震えていましたが、なんとかノーミスの演技を披露。最高に楽しかったです!

7.燃え尽き症候群……「辞めたい」

私が通っていた中学校は中高一貫校だったので、中学生としての試合が終わると引退することなく、そのまま高校生と一緒に翌年の団体演技に向けて練習を始めます。私も中学生としての試合が終わった中3の秋ごろ、当時の高校1年生と高校2年生の先輩と共に翌年の試合に向けて団体演技の練習を始めました。高校生の先輩方はレベルが高く、全中大会を経験した私でさえ、練習についていくのに必死でした。できないことが多く、先輩に怒られてばかりの日々。泣きながら帰ることも少なくありませんでした。しかし、それは中学1年生のときにも同じような経験をしていて、このぐらいのことでは心が折れないはずの私が、なぜかポキッと折れてしまいそうだったのです。初めて親に告げた「新体操辞めたい」という言葉。母親は真剣に話を聞いてくれましたが、当時既に団体のメンバーとして選ばれていたため、「今辞めると周りのメンバーに迷惑をかける」という理由で一時的に引き留められました。私もそれに納得し、とりあえずそのまま続けることにしました。あとで振り返ってみると、当時は燃え尽き症候群だったように思います。夢に見た全国大会に出場できた中学3年生の年。自分の中で達成感があったのでしょう。それまで耐えられていたはずのつらい練習に耐えられなくなっていたのです。

8.初めて言われた言葉に救われる

辞めたいと思いつつも、やるからにはしっかりやらないといけないと思い、練習を続けていたある日、私の新体操人生において二つ目の転機が訪れます。
私の通っていた高校では、試合前になると、教職員の方や他の生徒を呼んで、衣装を着用し、本番同様に演技を披露します。これを私たちは「試技会」と呼んでいたのですが、とある試技会の次の日、その試技会に来てくださった国語の先生が授業の際にこんなことをおっしゃいました。

「昨日、Ceciさんたちの演技見て、感動して泣きそうになった」

新体操をやってきて初めて言われた「感動した」という言葉。私がそれまでの人生の中で"感動した演技"といえば、フィギュアスケートの浅田真央選手の2014年ソチオリンピックでのフリーの演技でした。ショートでミスがあり、16位と出遅れたにも関わらず翌日はしっかり切り替え、最高の演技を披露したという伝説の回です。私もこのように見ている人たちを感動させる演技がしたいと心のどこかで思っていたのでしょう。「感動した」という言葉を聞いて、生きていて良かった!とまで思えたのですから。小学生や中学生の頃はとにかく試合で上位を取ることが嬉しかった。でも、高校生になると、何のために上位を狙ってるのか、単なる自己満のためにやっているのならこんなにつらい思いをしてまで目指さなくてもよいのではないか、そんなふうに考えることもありました。しかしながら、私の演技を見て感動してくださる方が1人でもいるのなら、私の新体操は決して無駄ではない、やっていてちゃんと意味のあることなんだと思えるようになりました。

その後は「試合で上位を取るために練習する」のではなく、「見てくれている人たちを感動させるために練習する」という考え方に変えました。そう考えることで、モチベーションが上がり、ただ技をこなすのではなく少しでも感動させるためにはどうしたら良いか考えるようになり、より表現力を上げるために工夫するようになりました。すると上位を取るためでなくても、自然と点数が伸び、結果的に試合の成績も良くなりました。また、この考え方に変えたことによって、例え試合で上位をとっても燃え尽き症候群になるようなことがなく、モチベーションを保てるようにもなったのです。「辞めたい」という感情も次第に消え、高校生のときには3年連続でインターハイに出場することができました(^^)

最後に、新体操を引退する少し前、団体演技ではなく、私の個人演技を見た小学生から「Ceciさんの演技を見てファンになった」と言われました。団体ではなく、私個人の演技で誰かの心を動かせたこと、また素直で正直な小学生にそのような言葉をもらえたことが、とっっっても嬉しかったです。12年間の努力にご褒美をもらえた気分でした。



いかがでしたでしょうか。12年間1つのことを続けられたという経験は今の私とって自信に繋がっています。あのとき辞めなくて良かった!12年間続けたことできれいな思い出として残り、今でも踊ることが大好きです。燃え尽き症候群になってしまったあのときに辞めていたら、踊ること自体嫌いになってしまっていたかもしれません。

ここまで長い記事になるとは自分でも思っていませんでした。最後まで読んでくださってありがとうございます!!!

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#山崎浩子 さん #畠山愛理 さん


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