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お雛様がつないだ縁

0歳の娘が、初節句を迎えた。

実家を出てから約10年、我が家にお雛様を飾ることはなかった。実家にいた時に毎年飾られていたお雛様は木彫りで、素朴でありつつもどこか凛とした佇まいだった。そのお雛様が昨日、36年ぶりに絵の具を塗り直してもらい、ピカピカになって我が家にやって来た。

この雛人形は、私が生まれた年に、人形作家をやっていた父の旧友から買ったものだ。その人は、日本画家である奥さまと共同で雛人形工房を経営していた。夫が木彫り、妻が彩色。美大の彫刻科で出会った父とその人は、父の数少ない大切な友人だったそうだ。

この人形を買った当初は、まだほんの趣味程度に、少しずつしか作っていなかったそうだ。しかしそれを見た人から「うちにも」と頼まれて作るうちに人ずてに広がり、毎年展示会を開くほど好評になった。今では相当高値が付くものらしい。しかし不幸にもその人は、多忙を極めるうちに、若くして交通事故でなくなってしまったのだ。まだ子ども達も小さい頃だったらしい。この人形は、その人がご存命だった時に、夫婦2人で作ったものだ。

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去年私に娘が生まれ、雛人形はどうしようかという話になった時に、この人形も我が家へ譲り受けた。この人形が父にとってどんなに大切な人形かを昔からなんとなく感じていた私は、「これが欲しい」とは言えなかった。しかし、父が自ら「これは明美に貰ってもらいたい。」と言って、大切なその人形を私にくれた。

35年間、毎年実家に飾られていその人形は、大切にされてはいたものの少し日に焼け、ところどころ色が薄くなっていた。「せっかくだから、塗り直してもらおう。」家族事に関して、普段はあまり自分から積極的に動く方ではない父が、不意にそう言ってサッと立ち上がり、書斎の奥から、古びた1冊の本を取り出して来た。

父の友人で、私の雛人形を作ってくれた人。松尾秀麿さん、春波さんが書いた著書だ。1本の木から彫られた、寄り添う雛。背表紙の後ろ姿がなんとも言えず胸を掴まれるのは、2人のその後を知っているからなのか。

木彫り雛への2人の想いが綴られているその本の巻末に、工房の住所と電話番号が記されていた。今では使われていない地名が記載されている。本の発行は1991年。秀麿さんが亡くなって以来、数十年連絡は取っていないという。今も雛人形を作っているのかさえわからないその番号に、父が電話を掛ける。繋がるのか、繋がらないのか…

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結果的には、無事に電話が繋がり、雛人形は数十年ぶりに生まれた工房に送られた。そしてピカピカになって、私の手元に来てくれた。春波さんは、秀麿さんが亡くなった後も1人で工房を続けられ、今でも毎年この時期に展示会を開催しているそうだ。

当然ながら、雛人形の絵付けというのは大変な作業だ。忙しい時期にお願いしてしまったので、仕上がりは3月を過ぎても全く構わないと伝えたのにも関わらず、雛祭り当日に間に合うように直してくれた。娘への、新しいお雛様まで付けて。

これには私も感動した。展示会が終わったら送ってくれるとのことで、まだ娘のは手元にはないのだけれど、その心遣いと優しさに、胸が熱くなった。

父宛に送られた春波さんからの手紙には、こんな事が書いてあった。

35年ぶりに再開する雛との出会いに、秀麿との思い出が蘇る思いがした。失ったものの大きさを再確認すると同時に、娘さん、お孫さんに雛が大切に受け継がれていくことを大変嬉し思います。

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最近父は自分の先が長くないことを案じてか、「私が死んだら…」という類の話をポツポツとする。友人の形見の大切な雛人形を私に譲ったのも、その一環か。

木彫り雛がつないでくれた縁が、娘へと受け継がれていく。私はまだ春波さんに会ったことがないが、元気なうちに娘を連れてお礼を言いに行きたい。そんな風に思った、雛祭りの日だった。

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