20190425_燃え殻_ボクたちはみんな大人になれなかった_

「ボクたちはみんな大人になれなかった」はまさに他人の日記で、そこに生きるに値する一瞬を求めて読むうちに朝になる。

今までの小説は、”物語に潜む謎”や”独自の感性と文体”を推進力として、最後まで飽きずに読者を捉えるように意識的にも無意識的にも設計されていたのではないか、と考えています。

三島由紀夫は、小説の動力はそこに潜む謎であるというようなことをどこかで書いていました。また、月並みでない小説はみな、その人でしか書けないなこれは、という独自性を有しています。それ故、ただ印字された活字をなぞるだけで時に思考の根幹を揺るがすような、日常を非日常的なものに変え得るようなカタルシスを得ることができるのかもしれません。

「ボクたちはみんな大人になれなかった」には、特段小説的な謎は潜んでいません。物語の終盤で何かが明かされたり大きな発見があったり、そんな展開はないです。起伏に乏しいゆるやかな日常描写が続きます。

独自の文体を有しているとも言い難い。叙情的であるといわれれば確かにそうですが、それをもってこの小説を最後まで読ませるほどのものかというと、そうではないと思います。文体で読ませるような小説ではない。文体に引き込まれる際の、独特の高揚感はないからです。

それでも、最後まで読んでしまう。気づくと読み終わってます。何が、この小説を最後まで読ませるのでしょうか。

自分の答えとしては、この小説の推進力は「背徳感」です。人の日記を、盗み見る感覚です。

必死に、かつ気力に飢えて生きるひとりの人間の生活を、人生の記録を、はぁーこんなこと考えて今日過ごしたんだこいつは、てスタンスで読む背徳感。他人の日記てなぜかひっそり開きたくなってしまいますよね。この小説に潜む推進力は、その感覚なのでは、と思いました。

他人の日記のような小説を読み終えた後、どんな気持ちになるでしょうか。自分は少し、安心しました。ああ、大丈夫だ、この人も同じように生きている、と。

この小説はひたすら等身大です。だからといって、多くの人の感性の最大公約数的なところを詰め込んだ陳腐なものではない。燃え殻さんだけの輝きが数個だけ、散りばめられています。数個だけです。それを、拾いながら読むんです。拾うのに夢中になっているうちに、最後のページに行き着くのです。

生きていくというのは、生きるに値するような瞬間を死ぬまで集めていく作業なのかもしれないな、と思いました。

蛇足です。車を買いました。月極駐車場を契約してそこに停めています。私自身は今月末で今住んでいる部屋を出ます。次の住所は決まっていません。自分の日記には計画性の無さがぎらぎら輝いてます。んー。。ひとまず駐車場で暮らすしかないのか。。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?