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歌誌『塔』2024年1月号作品批評(2024年3月号掲載)-前編-

みなさま、こんにちは。
今日はあたたかい一日になりそうです。

短歌における評とは何か…ということをあまり深く考えずに、選んだ一首について書きたいことを書いています。
ほんとうにこれで良かったのか、と不安を感じたり申し訳なく思ったりすることもしばしば。
毎月迷いながら書いております。それでは、どうぞ…。

選者:梶原さい子
評者:中村成吾

五十四帖を彩る月を想ひたり須磨に行く夜はありあけの月(伊藤孝男)

『塔』2024年1月号p160

『源氏物語』須磨の巻。「ありあけの月」とは、夜が明けてもまだ空に有る月のこと。当時、夜明け前に出立するのが通例であった。
『源氏物語』には七九五首の和歌がでてくるが、須磨の巻は四十八首と全巻のなかでいちばん多い。やはり物語のひとつのクライマックスなのだろう。

私が『源氏物語』の中でもっとも愛誦する歌は、紫の上の「惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしかな」である。
私も掲出歌のおかげで「ありあけの月」を見たら須磨を思い浮かべるようになった。

なお、連作のうちの「あぢさゐの青き光が垂れてゐると君は語りき足羽の山に」も透明感のある歌で一読して忘れ難い。
上の句がとくに秀逸で、「あぢさゐ」の花弁(正確には萼だが)から滴り落ちる雫に花の青が映っている様がまざまざと脳裡に浮かぶ。
「垂れてゐる」という表現も観察が行き届いており、美しい言葉である。映像喚起力に富んだ一首だ。


「この歌は何にも詠ってないんです」「それでいいのよ、それがいいのよ」(今井裕幸)

『塔』2024年1月号p160

歌会の一コマを思い浮かべた。上の句の問いかけには、「この歌」はすこし物足りないのではないか?作者のメッセージが含まれていないのではないか?といったニュアンスが含まれているようだ。
この問いに対して下の句では、それで問題ないという返答が来る。いちばん伝えたいことは敢えて言わないという詩の本質を踏まえたうえでの「いい」という判断なのだろう。私も「それがいいのよ」と声をかけたい。

さて、掲出歌を読んだときに思い浮かべたのが中井英夫の次の一節である。少々長いが引いてみる。
「(吉井勇)氏が釈迢空氏と共通するのは、その歌の〝何もない美しさ〟であろう。現代短歌にはあまりに意味がありすぎるのだ。文学的にはほとんど無価値の、ただの意味が。一見、本当に何もないごとくに見えるそこには、ただ光だけが充ちている、そのような歌こそ、 実は歌壇の枠を超え文壇の枠を超えて、真に人々の愛唱してやまぬ歌となり得る筈である。」中井英夫『黒衣の短歌史』「光の函」

中井は歌とは、「ただ光だけが充ちている」美しいからっぽの函である、という。
歌は、歌そのものの調べや姿によって光を放つ。
この考え方は、意味や新しさを追求してきた近代の潮流とは対極にある見方と言ってもよいだろう。しかし、私にはどこか惹かれるところがある。
新奇性の飽くなき追求、難渋で空疎な意味の洪水…現代短歌を旅していると、私はときおり酸欠状態に陥ってしまう。そして、「光の函」のような歌が無性に恋しくなる。
掲出歌は会話体のさりげないかたちで、歌の在り方についての問題提起を私たちに投げかけている。


通帳を仕舞ひすぎて忘れたり紛失届あわてて出すも(河内幸子)

『塔』2024年1月号p161

大切なものだからこそ大事にしまい込んで、結果としてどこにいったかわからなくなってしまう…。
誰しもこんな経験が一度や二度はあるだろう。
掲出歌には続きの歌がある。「バッグ底に通帳見つかり電話する復活手続きさらに面倒」さて、無事に見つかって良かったと安堵するのも束の間、今度は「復活」の手続きが舞い込んでくる。ため息が聞こえてきそうだ。

最近はWebで閲覧するデジタル通帳が増えてきている。紛失や盗難の心配がなくなるというメリットがある。
新規で紙の通帳を発行する場合は手数料がかかる銀行も出てきている。紙の通帳は徐々に絶滅危惧種になっていくのだろう。

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