歌誌『塔』2023年11月号作品批評(2024年1月号掲載)-前編-
みなさま、こんにちは。
編集部よりご依頼をいただきまして、2023年11月号~2024年4月号まで梶原さい子選歌欄の評を担当させていただいております。
実際に掲載されるのは2ヶ月後ですので、2023年11月号の評は2024年1月号の掲載となります。今号から掲載開始です。
普段のnoteの記事は敬体(です・ます調)ですが、評は常体(だ・である調)で書いております。本記事もそのままとしました。
きちんと評を書くのは初めてなので試行錯誤ですね…。もっと良い評を書けるようになりたい。自分の歌に評をいただくのは嬉しいこと。私の評も誰かの喜びになっていればうれしいな。
本記事では、2023年11月号分で私が担当した評の前半を採録しました。後半はまた別の記事で…。
選者:梶原さい子
評者:中村成吾
朝ではないのはわかっているけれど、ニコッと笑ってからかい半分に「おはよう」と声をかける…そんなシーンを思い浮かべた。こちらはまだ余裕のある職場の雰囲気。
その後に思い浮かんだのは、パソコンを凝視して見向きもしないで機械的に挨拶を返すシーン。かなりお疲れのようである。
私は前者のような社会人でありたいと思う。残業、お疲れさまでした。
ふと視線を窓の外にやると茗荷の葉がそよそよとかすかな音を立てながら風に揺れている。その様を見た主体は立秋に思い至る。
この歌からは古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)を自然と連想する。調べてみると詞書には「秋立つ日詠める」とあり、古今集の秋の巻はこの歌によって幕開けとなる。
藤原敏行は風の音で秋の到来に気が付いたが、主体は聴覚と視覚によって秋を察知した。視覚による細やかな観察が加わっている点が現代短歌的であると言えようか。
ともあれ、平安と令和の両者がゆるやかに繋がっているように思われて心惹かれる歌である。連作の中には「ゆっくりと墨はやさしく磨るべしと心平らかに硯に向かう」という歌もある。きっと実りある秋を過ごされたのだと思う。
作者の意図とは逸れると思うが、鍵が開く直前すなわち「居住いを正」す前の土蔵の中の様子を想像した。普段の土蔵の中は真っ暗。
しかし、繊細な人は、耳を澄ますとひそひそと会話が漏れ聞こえてくることに気が付くはずだ。漬物石は冬が苦手だと弱音を吐いたり、味噌樽はここ二十年ほど使ってもらっていないと不平を口にしたり。蓄音機は昔歌った琵琶歌を小声で口ずさんでいる。
土蔵にしまわれている物たちがコミカルな姿で私の脳裡に浮かんでくる。物語性に富んだ一首だ。
一読、銃後の生活を思わせる言葉にどきりとする。と書いてみたものの平成生まれの私には、実のところなかなかうまく像を結べない言葉だ。私は戦争の体験談もあまり聞いたことがない。思えば銃後という語も現代にあってはおどろおどろしい印象を受ける。戦争というものを薄味のスープのような印象論でしか語り得ないということは、太平の世に生きる証として嘉するべきであろうか。尤も、かりそめの平和なのかもしれないが…。
かつて三島由紀夫は、「愛国心」という言葉について、「官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。」と語っていたそうだが、この歌の国民服等の言葉にもどこか似たような「にほひ」がある。近い将来、またこのような言葉が流行することになるのだろうか。時に言葉というものが私たちの思考そのものを規定してしまう側面があることをゆめゆめ忘れてはならない。
生きているとたまにしんどいなぁと思う朝がある。眠って起きれば朝が来ているのだから、生きるということはある意味で残酷なものだ。草臥れた身体はまだ横になっていたいと訴える。見上げれば空ばかりがいきいきしている。
しかし、このまま留まってもいられない。非情にも時の流れが私たちを引きずっていく。…そうかと思えば、朝の来ない夜はないと考えて、暗闇の中でかすかな希望を抱く日もある。主体の疲れが癒されますように。
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