見出し画像

燃えかすと暴れ川、そして虐殺が起こる(森達也監督映画『福田村事件』評)

はじめに

 一九二三年、九月六日、千葉県の福田村で香川県から来た行商人が朝鮮人と間違えられて虐殺されるという凄惨な事件がおこった。九人、胎児を入れて十人がこの事件で亡くなった。世に言う「福田村事件」である。この事件は、被害者たちが被差別部落の出身であったこともあり、かなり長い間注目されることもなく闇に葬られてきた。

 その百年後、二〇二三年、森達也監督のもと映画『福田村事件』が公開された。本記事はそのちょうど九月六日に観たこの映画ついての感想である。
 しかし残念ながら、その感想は良かったという感想にはならない。正直に言えば、酷評のたぐいになる。だから、余計な先入観はいれたくないという人は、先に映画本編を観に行った方がよいだろう。

 本当は、この感想を公開するつもりはなかった。この感想は、ある友人にこの映画を薦められて観て、どうせ感想をきかれるだろうから「あ~~~、いや、う~~~ん、自分としてはなあ~~~」ともごもご答えるのがいやだったから、書きまとめておいたものである。
 書きあげて、その友人には見せたものの、公開するつもりはなかった。私にはこの映画の作品としての粗が目立ったが、なんにせよ社会的に良い影響を与えるだろうことは確かであるように思われたからだ。あの事件の百年後の日本で、誰かがこの事件を撮るということは、記念碑的な意味もあるだろう。また、本稿で私が大きく依拠する辻野弥生の本、『福田村事件』(五月書房新書)も、この映画のおかげで復刊されたらしいので、少なくともそれだけで一つ功績はあるのだ。

 この経緯に仮に事実誤認があるとしても、この映画のおかげで、私がこの本を買って読んだということは確かである。だから、感想を公開してへんにトラブルを招く可能性をうむよりは、一つツイート(X?)するだけにしておこうと思っていた。

 感想を公開しようと考えを変えたのは、以前お会いした畑中章宏氏のこの映画についての批判的言及(「「福田村事件が全然描かれてへんやん」というのがまずもっての感想」、「全く問題が整理されていない。そのうえ人物像や台詞がステロタイプで見続けるのがつらいほどだった。」)を目にしてからである。
 要するに、他人の尻馬にのって、批判する気になったと言えばそうなのだが、もっと言うなら、批判をするなら、なぜそのように考えたのかを明確に書いておいた方がよいだろうと思ったからである。「福田村事件が全然描かれていない」、「全く問題が整理されていない」、とは具体的に何を意味するのか? この点については畑中氏は後に説明するつもりであるようである(「森達也監督「福田村事件」が抱える〈問題〉については30日(土)の田中功起さんとの対談でも言及するつもり」)。
 同様に、私も「よくある怪獣映画にメロドラマが不自然に挿入されるやつ、テーマが福田村事件でもあるのか」と批判を言い切ってすませてしまうよりも、具体的になぜそのように考えたかを示しておいた方が卑怯ではないし、より建設的だろう(後日、連ツイで少しだけ示したが、これだけではあまり分からないかもしれない)。

 いずれにせよ、前置きはこれくらいにしよう。なお本稿では、辻野弥生の書籍『福田村事件』と、映画『福田村事件』のパンフレットを一部引用するが、書籍については(辻野, p. oo)、パンフレットについては(森達也, p. oo)とページ表記させていただきたい。
 また、この感想は、映画を観た友人に宛てた文章をもとにしているため、映画をすでに観た読者を前提としており、観ていない人にとっては若干、不親切である。その点もご容赦いただきたい。


冒頭から出鼻をくじかれる(不自然きわまる会話劇)

 まず、最初の列車のくだりで出鼻をくじかれた。遺骨の箱を抱える未亡人・咲江を前にとつぜん「金持ちも貧乏人もいない国を作ろうとしたロシアを潰そうとしたんだ」(森達也, p. 52)と言い出す最初のくだりである(映画は、福田村へ向かう列車のシーンからはじまる。お骨を収めた箱を抱える未亡人・咲江と、失意のうちに朝鮮から故郷へ帰る男・智一、その妻の都会的な装いをした夫人・静子が、膝をつき合わせて座っている)。 

 会話として不自然すぎる。列車で同席しているだけの人に声をかけるのも、普通はためらわれるものだ。だが、夫人・静子は故人の話という明らかにセンシティブな話題に躊躇なくつっこんでいく。もしかしたら、映画がはじまる前に躊躇の時間があったのかもしれない。だが、映画として説得力のある会話を撮るためには、その時間はけっしてカットできないものではないだろうか。その上で、さらに夫・智一の方は、ソ連はいい国だと主張をはじめる。これもかなり場違いで、異様な会話だ。

 この異様な会話を自然なものとしてみるためには、この男は極端に空気の読めない・読もうとしない人である、とみるか、この男はおそらくソ連兵の手にかかって夫を失った人の前に立ってもソ連の正当性を主張するほどの社会主義者である、とみるしかない。もしそうであるならば、このぎこちない会話も、男の性格を描写するものとして説得力をもつことができただろう。
 だが、映画を観ていくと、そういうわけでもない。男は、(若干空気の読めないところはあるかもしれないが)普通に村八分を恐れるような人で、そして朝鮮にいたころから今までずっと、積極的な社会主義者であったことはないようである。
 ではなぜこんな会話になったかを考えてみると、要するに時代背景を説明しておきたかったのだろう。シベリア出兵(1918-1922)がついこのあいだまであった時代でしたよ、日本も派兵してそれで夫を喪った人もいましたよ、ああでも誤解しないで、ソ連はわるい国じゃなくて社会主義を実現しようとしたいい国でしたよ・・・・・・。

 この映画では、こういう時代背景を説明するための不自然な会話が頻出してくる。たとえば後のところでは、行商人の子供が、富山の薬との違いをきかれて、富山の薬売りの業態と、自分たちの業態の違いを説明するくだりがある(富山の薬売りは、薬を相手の家に置いておいて、後で使った分だけのお金を回収する。香川から来た自分たちは、その場でお金を支払ってもらう。お金がすぐ必要だから・・・・・・)。
 この子供が他県の薬売りの業態についてこれほど詳しいのにも違和感があるのだが、薬の違いを聞かれたなら、薬売りとして来ているなら薬効の違いを答えるべきだ。それを業態の違いに話をもってくる。これはおそらく、香川から来た彼ら行商人の境遇を説明するためだったのだろう。だが、そのためにこの子供は他県の薬売りについて細かに答えられるほどの知識がありながら、薬売りとして働くためには不可欠なセールストークの知識を欠いている、行商人の子供として不自然なチグハグした性格をもった人物になってしまった。

 一番、馬鹿馬鹿しく映ったのは、震災直後のデマの流布の場面である。瓦礫から這い出た平澤(亀戸事件の被害者の一人)と記者に対して、付近の住民が「平澤さん、富士山が噴火したそうですよ」「あたしゃ、大津波がやってくるって」「まさかと思うけど、山本権兵衛首相が暗殺されたって話も」(森達也, p. 68)。
 震災後にデマはつきものだが、こんなふうな仕方で広まるものではない。震災すぐはまず命がけの避難に追われて何も考えられない。それが避難所かどこかで一息ついて、他の避難民と肩を寄せ合うところから、デマはジワジワと広がって行く。そういうものではないだろうか。それがここでは震災後にどんなデマが広がったかを説明するために矢継ぎ早に紹介するものだから、ほとんど茶番のようにみえる。
 後の亀戸事件の伏線になる場面(瓦礫から這い出た住民が上のような井戸端会議を行っているところに、自転車に乗ったおっさんが、へらへらしながら社会主義者や朝鮮人の陰謀の噂を吹き込む。平澤は一喝して否定したあとで、「どこかで見たような顔だな」とおっさんに言う。すると、おっさんは慌てて自転車でよろよろとその場を逃げ出す。彼は平澤を私服で監視していた特高だったのだ)も、ほとんどギャグの撮り方である。


そこにさらにメロドラマがぶっこまれる(そもそも物語が多すぎる)

 さて、しかし以上のような説明セリフ、不自然な会話も、ある種の真面目さとして捉えるなら擁護できるのかもしれない。福田村事件を後世に伝えたい、背景情報も余すところなく伝えたい・・・・・・そうなると、リアリティのある会話を撮るためにたっぷり時間を使うなんて贅沢はできなくなる。多少、説明ゼリフになっても、茶番くさくなっても、情報をつめこまなくてはならない・・・・・・そういう考えなら分からないことではない。

 作品としては不出来なものになってもいいから、強く伝えたいものがある。そういう信念があるなら、作品を描写が不自然などと評しても仕方のない話だ。自分ははじめ、そのように考えることで、映画を擁護することにした。
 だが、観ていくうちに違和感はさらに広がった。未亡人・咲江と、渡し舟の船頭・倉蔵のメロドラマが唐突にはじまる。と思ったら、今度はその船頭・倉蔵と、静子のメロドラマがはじまる。あとついでに、映画の最初の方の宴会の席に出てきた旅順の戦場にいたというおじいさん・貞次が、その息子・茂次が兵隊に行って家にいない間に、その妻・マスを孕ませていたのではないかという話もでてくる。

 最後まで観終わっても、これら三つのメロドラマが、福田村事件というドラマを物語ることに寄与しているとはとうてい思えなかった。こんなものに時間を使うくらいなら、人々の会話、震災の被害、そして主題である福田村事件を説得力のある映画として撮るためにもっと時間をとってよかったのではないか。なぜ急に、こんなメロドラマが差し込まれなければならなかったのか。
 推測してパッと出てくる答えは一つである。要するに、怪獣映画で不自然にメロドラマが挿入されるよくあるやつがここでも起こったのだ。

 これはオタクがよく言う「あるあるネタ」の一つである。怪獣映画を観に行く怪獣オタクはいつもこうしたメロドラマにうんざりしており、勢い余って、「怪獣映画に人間ドラマは要らない」と、のたまったりする。
 だが映画会社は怪獣オタクだけを相手にしているのではないので、怪獣映画を撮るときも、大衆受けする恋愛ドラマとキレイな女優さんをどうにか、ねじこんでしまう。だから、いつまでたってもこういう不自然なメロドラマはなくならない。これは俳優の顔面を全面に押し出したダサい映画ポスターが(映画オタクからはダサいと言われ続けても)いつまでたっても日本から無くならないのと同じような理由である。・・・・・・と、このように語られることがある。

 この「あるあるネタ」がどれくらい「ある」のか、どれくらい正しいのかは自分には分からない。また映画『福田村事件』制作にどれくらい映画会社、出資企業の意向が関与してきたのかも分からない(少なくともポスターはそこまでダサくなかった)。
 だがそうでもなければあの風呂シーンは必要だったか? とは思う(都会育ちの夫人・静子は、福田村の暮らしにすぐに退屈し、船頭・倉蔵のところに毎日行って、遊覧船のようにあっちの岸、こっちの岸へ往復してもらうようになる。そのはずみでつい、二人は舟の上でセックスすることになるのだが、その様子を夫・智一、そして未亡人・咲江は森の中から見ていた。智一は、朝鮮時代の陰惨な経験から不能になっているという負い目もあり、帰ってきた静子を何も言わず背負って、風呂に入れてやるのだった・・・・・・)。

 実際のところ、どのような経緯でこの恋愛ドラマが挿入されたのかは分からない。それに恋愛ドラマを入れたから必ず映画として悪くなるということもない。映画『福田村事件』も、恋愛ドラマを描き切ることで、戦争で引き裂かれる男女の悲哀、家に縛られる男女の悲哀などを描き切ることで、福田村事件というある村で起きた事件を深い次元から描き切ることが可能になりえたのかもしれない。だが、それはかなわかなった。挿入されたどのメロドラマも充分に描き切られることはなかった。
 もっと言うなら、映画『福田村事件』は充分に描き切れなかった物語が多すぎるのである。智一・静子・倉蔵・咲江の四角関係も、貞次・茂次・マスの家庭内三角関係も、あるいは智一という失意のうちに朝鮮から帰ってきた男の物語も、そして新人女性記者の物語も、亀戸事件の物語も、そのどれも充分に描き切れていない。
 そもそもこんなにたくさんの物語を描き切るための時間はこの映画にはないのである。そのどのテーマ、物語も、本気で描こうとしたら映画一本は撮れるだろう。それこそ亀戸事件は映画『福田村事件』みたいに映画『亀戸事件』として撮られるべき代物だ。しかしそれらをギュッと映画『福田村事件』に詰め込んだことで、この映画は福田村事件の物語を描き切ることにさえ失敗してしまった。私にはそう思えてならない。


どのような映画『福田村事件』がありえたか

 では、そう言うならばお前はどんなふうに撮ればよかったと考えているのか、と思われるかもしれない。私が考えてみてもどうしようもないことではあるが、少し考えてみたい。
 まず最初に設定しておく必要があるのは、福田村事件を題材にすることでどんなドラマを撮りたいか、ということである。福田村事件の出来事を撮ることで、人間の何を描きたいのか、これについて考えておく必要がある。それで、自分は森達也監督が『虐殺のスイッチ』という本で投げかけた問いを起点にして考えてみたい。森達也監督は「一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか」と問いかける。ごく普通の善良な市民がなぜ多くの人を殺せるのかと問いかけるのである。福田村事件を撮るのであれば、まさにこの点を問題にして撮らなければならないだろう。

 もっとも、そのように問いかけたのと同じ森達也監督が映画『福田村事件』を撮っているのだから、この映画でもその問いは意識されているにはいるのだろう。だが、観客として観た感じ、この映画での描写は「私たちと同じ普通の人々がなぜ・・・・・・」という問いに迫るものではなく、「昔の普通の人なんてのは、天皇万歳と差別意識に凝り固まった連中でした。まあそれもこれも当時の社会が悪い」と言うようなものだった。
 少なくとも、あのこてこてのステレオタイプで描かれる在郷軍人をみて「私たちと同じ普通の人々がなぜ・・・・・・」という問いを抱くのはひどく難しいだろう。最後に「これもお国のためだったんだ」と叫ぶのをみて、ああ当時の社会はダメだったから普通の人もこうなってしまったんだと思うくらいで、結局のところ虐殺する側は「私たち」とは違う、「あいつら」「昔の人」「当時の社会」ということになってしまう。虐殺が「私たち」の問題ではなくなってしまう。
 福田村事件を撮るならば、まさにこの「私たちと同じ普通の人々」が虐殺者に変化してしまうというところを丁寧に撮る必要があった。それでは、どうしたらそのように撮りえたのだろうか。自分は映画の撮り方については知らないので、辻野弥生の『福田村事件』を参照しながら、もっとこれを描写してほしかったというところを三点あげよう。一つ目は、震災後の被害、二つ目は福田村周辺の朝鮮人、三つ目は利根川である。

① 震災後の被害

 虐殺の起きた直接の原因は関東大震災である。ごく普通の人がどのように虐殺者に変わってしまったのかを撮るには、震災後の被害を丁寧に描く必要があった。
 崩れた家屋、繰り返される余震、情報の途絶、物流の途絶・・・・・・。最後の項目は、現在よりも地産地消の傾向の強かった当時はさほどすぐには問題にならなかったかもしれない。だが直近の問題にならないとしても、今後どうなるかという不安はたちこめたはずだ。また映画『福田村事件』では余震の描写がほとんどなかったように感じられたが、この描写は震災後について映画を撮るなら必要不可欠なはずだ。
 そして最後に関東大震災を特徴づける大火災の描写が必要である。福田村は東京から離れているから必要ないと思われるかもしれないが、福田村の近隣に住んでいた人は「〔震災の日の〕夕方には南風に変わって東京の方からいろんな燃えかすが飛んできました。」(辻野, p. 172)と証言している。その燃えかすは福田村にまで飛んできていたかもしれない。
 東京から音沙汰がなくなって、燃えかすだけが飛んでくる。しばらくしてやってきた避難民の話を聞けば、東京では空前絶後の大火災が起ったらしいじゃないか。どこにそれだけの炎があったのか?

 後から考えれば、東京に住む人々の煮炊きの火が合わさってあのような大火災になったということは分かる。だが現に東京に住んでいる人にとってみれば、煮炊きのあのような小さな火があんな大火災になるとは思えない。あれほどの炎があがったということは誰かが放火したに違いないのだ。たとえば社会主義者か、朝鮮人が?
 冷静に考えれば、当時の人でもあの火が自分たちの火だったことに気付けたかもしれない。だが余震が、そのわずかな冷静さすらも吹き消してしまうだろう。
 後には「社会主義者か、朝鮮人が?」という不吉な問いだけが残る。

② 福田村周辺の朝鮮人

 その問いに、福田村の住民は「朝鮮人」という答えを結びつける。しかしなぜそのようなことが起ったのか。当時の社会全般の風潮と言えばそれまでだが、福田村には、というより福田村近辺にはもう一つ特殊事情があった。
 事件の起こった場所について、事件の生き残り、太田文義は次のように証言している。

震災のときはどこにいましたか
 大正十二年九月一日に大震災が起きました。この時野田にいました。野田はご承知の通り醤油の産地、キッコーマン醤油の町です。

(辻野, p. 145)

 本の著者、辻野弥生も次のように綴る。

 野田といえば、いまや醤油のトップブランドとして世界にその名を馳せるキッコーマン醤油発祥の地である。長年にわたって町を潤してきた歴史があり、すぐれた事業家に対する尊敬と親しみをこめて、土地の人はいまだに「造家さん」と呼ぶ。
 記録には「関東大震災の被害は軽微であったが、醤油醸造工場の諸味など地上にゆりこぼされたものが、二千石余にも達したほか、仕込蔵五棟、倉庫二棟が倒壊した」とある。また労働運動の勃興期と重なる大正十一年(一九二二年)から労使の攻防が始まり、昭和二年(一九二七年)九月から翌年の四月にかけての労働争議は、二百十七日に及ぶ戦前最大のものとなった。このキッコーマン工場でも朝鮮人が働いていた記録があり、震災後、「保護」という名目で習志野に連れていかれている。

(辻野, p. 123)

 福田村の人の朝鮮人観を考えるとき、このキッコーマン工場の存在は欠かせないのではないか。福田村の人々は、きつい労働から上がった訳の分からない言葉を話す朝鮮人の集団と出くわしたことがあったかもしれない。すぐ近くで住むなかで何かトラブルが起きることもあったかもしれない。そうでなくても、地元の誇り、キッコーマンを困らせる「悪い労働者」の一部をなす連中として認識していたかもしれない。
 いずれにしても、福田村事件を描くためには、このキッコーマン工場の朝鮮人労働者を描く必要はあったのではないか。だが映画『福田村事件』は森の中に突如現れる朝鮮アメ売りの少女として朝鮮人を登場させる。
 この朝鮮人のアメ売りは、辻野の本では、事件の被害者の出身地に住んでいた女性(当時は六歳)の証言からとってきたものだろう。彼女は当時事件を聞いたときに思ったこととして、こう証言している。

こちらでは朝鮮の人はよくアメ売りに来ました。その人の言葉はなまりとかでわかりました。あの言葉と讃岐の言葉がなんでわからないのかなあ、関東の人ってひどい人やなあと私は思いました。

(辻野, p. 170)

 この証言はたとえば讃岐における朝鮮人を考える上で貴重だが、福田村事件を描く上では、キッコーマン工場の汗にまみれた朝鮮人労働者を描くべきだったと私は思う。
 だが映画はそのかわりに、エルフの森から出てきたようなファンタジックな朝鮮人のアメ売りを登場させる。しかしそれだけでは火付けした不届き者としてなぜ福田村の人々が朝鮮人を想像してしまったのかは理解しがたいものになるだろう。要するに、当時はそういう社会だった、ということで終わり、となる。

③ 利根川

 以上は、福田村事件の起きた二要因と言えるが、この事件の起きた直接のきっかけではない。もし運がよければ讃岐からきた行商人の一団は朝鮮人と誤認されることなく無事に故郷に帰れたかもしれない。直接の原因となったのは、利根川の渡河の際の、船頭との口論である。事件の生き残りは次のように証言している。

 集団で転地しておった時にやられたのがこの事件です。荷物を大八車に積んで神社のところまで行きました。その時に船頭さんと支配人が相当争いました。利根川の対岸(茨城方面)に渡してもらう条件に問題があったんです。支配人が「荷物を積んだまま渡し船に乗せてくれ、荷物ごとや」と。荷物を下ろしたり積んだりでは手間がかかる、向こうへ渡ったらすぐに行商せないかんから一時間でも早く向こうへ渡りたいとの希望でした。船頭さんは「荷物を積んだままでは行けない。荷物を下ろして渡れ」と言いました。支配人は強硬に要求しました。
 船頭さんは「十五名の人間は二回に分けて、荷車を引っ張る者と押す者は一緒に乗ってもらって十三名は後の船で」と言いました。
 そのとき船頭さんが「どうもお前たちの言葉づかいが日本人でないように思うが、朝鮮人とちがうのか」と言い出しました。船頭さんがお寺とお宮のところにあった寺の梵鐘をついたわけです。そうすると警備していた皆さんがウンカのように集結してきました。

(辻野, pp. 150-151)

 どう船を渡すかで意見が分かれたのは映画でも描かれていた。だが映画では微妙に改変がされていて、直接に行商人を疑ったのは船頭ではないことになっている。船頭はむしろ彼らをかばったことになっている。
 だが、福田村事件を考える上で、事件の直接のきっかけが船頭との口論であったことは重要なことだったように思われる。このことを考えるためには、そもそもこの川がどのような川だったかを押さえておく必要がある。利根川は坂東太郎と呼ばれる日本三大暴れ川の一つなのである。辻野は事件の起こった渡し場について次のように書く。

 渡し場付近の川岸に立ってみると、坂東太郎の異名で親しまれ、流域面積日本一といわれるだけあって、滔々とした流れはどこか人を威圧するような力でせまってくる。対岸は茨城県で、徳川家康が鷹狩で三ツ堀から野木崎(現守谷市)に渡る際、大雨で流れが強く、船頭にガマンして渡れと言ったことに由来して、俗に「我慢の渡し」とも呼ばれた。安政二年(一八五二年)に出された赤松宗旦の『利根川図志』の三ツ堀には「ガマン」と記されている。つまり鬼怒川との合流点が近く、流れが急な渡しであったことがうかがえる。

(辻野, pp. 113-114)

 福田村事件の時代も、坂東太郎の危険性は健在で、実際この事件の三年後にも死亡事故が起こっている。辻野は次のように記す。

 虐殺事件から三年後の大正十五年(のちに昭和元年に改元、一九二六年)九月四日、福田第一小学校の児童が職員引率のもとに校外学習にでかけ、利根川を船でわたるとき、突風に遭い、児童三人を含む六人が犠牲となった。

(辻野, p. 126)

 そのような川で日々仕事をする船頭にとって「板子一枚下は地獄」ということは身に染みて分かっていたことだろう。板一枚抜ければ、全員が死ぬのである。だから船頭から行商人への要求は死活問題だった。
 行商人としても、行商のための時間をとるため、また、人と荷物を分けることで荷物が盗まれる危険を防ぐための要求として、死活問題の要求と言えたが、船頭としては文字通り死の危険のかかった問題だったのである。

 だが行商人は行商人の方で自分の要求をゆずらなかった。もしかしたら、彼も彼で実際に荷物を盗まれたことがあったのかもしれない。また、震災直後ということもあって、そんなことが起ってもおかしくないと考えたのかもしれない。いずれにせよ、行商人は自分の要求をゆずらなかった。
 ここで、船頭には疑問がわいてくる。彼にとって「板子一枚下は地獄」は常識である。自明の理である。そんな当たり前のことをなぜこいつらは理解できないのか。こんな常識が通じないなんて、こいつらは日本人ではないのではないか? そもそもこいつらはなんでこんなにも急いで渡河しようとしているんだ? それにこいつらは言葉遣いがどうにもおかしい・・・・・・。
 かくして平穏な日常の板子一枚の下にある地獄を開く最初の一言が発せられることになる。

「朝鮮人とちがうのか?」

 さて、惨劇の舞台となったそんな利根川を映画『福田村事件』はどのように描いただろうか。静子と船頭・倉蔵のランデブーの舞台にできるほどおだやかな川。
 監督は坂東太郎を公園の池とでも勘違いしているのではないか?


虐殺のきっかけ(すべてが男女ドラマに)

 以上、三点挙げてみた。このようにみると、やはりよく分からないメロドラマが映画『福田村事件』の質を大きく下げているように思える。静子と倉蔵のランデブーがあるから、坂東太郎は公園の池になり、咲江と倉蔵の不倫があるから、事件の直接のきっかけも船頭の渡し守としての矜持ではなく、船頭・倉蔵に対する、妻を父親に盗られたかもしれない男・茂次のやっかみになってしまう。

茂次 「(立ち上がり)半鐘だ半鐘だ! みんな、呼べ!」
倉蔵 「茂、落ち着けって。ちっと落ち着けよ」
茂次 「てめえはそんなノロマだから、みんなからバカにされんだよ。手が   早いのは女にだけか」
   倉蔵、思わず茂次の頭をはたく。

森達也, p. 77)

 そのすぐ、茂次は倉蔵を突き飛ばして半鐘の方へ駆けて行く。映画『福田村事件』からすれば、福田村事件の発生も男女の情の問題から理解されてしまうのである。この方針は一貫していて、福田村事件の最初の死者も、この映画からすれば男女の情から理解できる。つまり、自分の夫が震災で死んだと思った女が復讐のために思い切り行商人の脳天に鳶口をおろすところから惨劇がはじまるのである。
 ああ、男女の情、男女の情、結局日本映画は何を撮っても男女の情しか表現できないのか、と言いたくなるが、自分は正直日本映画に詳しくないのでそれ以上言うのはやめておこう。それよりも実際の福田村事件では何が惨劇の発端になったのかをみてみたい。生き残りは次のように証言する。

 喜之助さんという人の弟さんの紘一(こういち)さん、それに武夫さん、この方が虐殺の発端になったんです。床几に坐っていたんだけど、立ち上がって近くの農家に煙草の火を借りに行こうとしたんです。それを「逃げよる!」となったもんだから、逃がしたら厄介なことになるというので大勢が「殺(や)ってしまえ!」ということになりました。
 第一番に武夫さんの頭に鳶口が、後は血栓がパーッとあがりました。紘一さんは一応松林の中に逃げ込みましたが、すぐに追いかけられて、殴ったり突いたりして殺されました。私は武夫さんが殺されるのをすぐ目の前で目撃しました。

(辻野, pp. 152-153)

 私はこの証言に強いリアリティを感じる。人は最悪の状況にいるときも、正常性バイアスにとらわれて、事態の深刻度を軽くみてしまうものだ。
 囲む側は緊張度がマックスだったとしても、囲まれている側は、ただ事態の推移を見守るしかないため逆に緊張が緩んでしまうというのもありうる。第一囲まれているとはいえ、駐在が野田署に確認しに行ってくれたではないか。だから一服して待っているだけでいい。ああ、そうだ、煙草の火がないや、そういやこの近くに親切な農家の人がいたんだった・・・・・・。

 さて、ここで興味深いのは、こんな状況でありながら、ふと煙草の火を借りようと思い出してしまうほど彼らに親切にしていた農家の人が近くにいたらしいことである。行商人はおおむね蔑視されていたとはいえ、そういう親切な人もいるにはいたのである。
 また辻野の本では生き残った少年を保護し、「うちに同じくらいの息子がいるから家にこんか」と言った吉田という巡査が登場する。自分が福田村事件を撮るとすれば、以上をふまえてごく普通の人がどのように虐殺者になったのかを丁寧に描いた上で、親切な農家や吉田巡査を描くことで、それでも流されない人もいる、ということを描くことができたら、と思う。

***

 しかし残念ながら私にはそれだけのバイタリティがないというのもまた事実である。森達也監督は映画『福田村事件』を撮りきっただけ、えらい、と言うこともできるのである。
 少なくとも、この映画のおかげで福田村事件はより広く知れ渡るだろう。それに、私の参照している辻野弥生の本も、この映画のおかげで増補改訂版として再版されたと考えてみれば、その功績はきわめて大きい。それは間違いない話だろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?