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採血ルーティンを笑顔に変えた「袖すり合うも多生の縁」

例に漏れず、私は採血されることが好きではない。

だが笑顔で臨むことはできる。

採血にまつわる愉快な思い出があるからだ。



採血が嫌いという理由には、痛いからということもあるだろう。だが、私の場合は、それが理由ではない。採血前のルーティンが面倒だから嫌いなのだ。

名前や生年月日の確認の他、採血前に尋ねられる言葉。

「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」

表現は幾らか違っても、アルコールに対するアレルギーの有無の確認をされる。

何度も通っている採血室で、しかもほぼ毎日のように採血に通っていた時期、この質問が繰り返されることが面倒で仕方がなかった。

だが、ある時から、その質問が好きで好きで仕方なくなる。

採血室でのご縁のおかげだ。



その病院は、混雑すると採血待ちに1時間は当たり前だった。採血室の座席は6席ほどで、いつも混雑していたのだ。

患者の仲間うちでも採血待ちの長さが話題になっていた。「採血室がヤマ。あれが終われば後はもう楽ちん!」といわれるほどの難所である。

月・水・金と採血が続く毎日を過ごすうち、すっかり常連さんになる。採血をされること自体がルーティン。まるで採血室に通い続けるロボットのようだとさえ感じた。

皮膚も心も鈍感になっていった。

何も感じないほうが楽だ。

当時の私は、そう思っていたのだ。



ある日のこと。

採血の順番が来て、指定の席に座り、いつも通りの会話が始まる。

「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」

ルーティンの質問に答え、虚ろな心持ちで私の腕は駆血帯が巻かれるのを待つ。

ふと、隣の席の会話が耳に入ってくる。患者は年配の男性だ。

「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」

隣の席でも同じルーティンが行われている。年配の男性は耳が遠いのか、大きな声で質問を繰り返すよう促していた。

ルーティンの質問を聞きなおすということは、ひょっとして、この方は初診なのかもしれないな。私はチラッと隣席の様子を伺った。

男性は何やら楽しそうに微笑みを浮かべている。採血にウンザリしている風ではないから、やはり新患だなと判断した瞬間、会話の続きが耳に飛び込んできた。

「んーーーっ。アルコールぅ??アルコールなら大丈夫だぁ。ふふっ。毎晩、毎晩、おいしぃーくお酒をいただいてますからぁ!はっ!はっ!はーっ!」

ゆっくりと明瞭な語りが辺りに響く。

続けて、晩酌の内容、即ち、お酒の種類や量の説明をされていたが、その会話は頭に入ってこなかった。

笑いを堪えることに必死になっていたからだ。



あの方のお顔は覚えていない。朗らかな声のトーンで楽しそうに晩酌の話をされていた印象だけが残る。

一生に一度きり、ほんの数分隣の席に座っただけの関係。もちろん、消息の知りようもない。

だが、私はあの愉快な体験を忘れられないのだ。

採血のたびに、注射のたびに、点滴のたびに、小さな贈物を受け取っているような気持ちになる。

「アルコール消毒にカブレたりはないですか?」

あれ以来、この質問に対して、私は明るい気持で言葉を返す。

「はい。アルコールでカブレたことはありません。」

あの方とのご縁に心の中で手を合わせつつ。