見出し画像

音楽の力

連続岐路エッセイその④

 試験に合格したとは言え、じゃあすぐに行政書士として食っていけるかというとそんなわけはない。私はしばらくは派遣社員を継続しながら資格をどう活かすか考えることにした。派遣先は大手広告代理店の子会社でDTPを専門にやっているところだった。前職のスキルが十分に活かせる職場で人間関係も悪くない。残業は多く、たまに徹夜作業もあったが特に苦にすることなく、ストレスを感じることはあまりなかった。

 この職場で、私の運命を大きく変える……ことはなかったが、その後の生活に大きく関わってくる人物と出会った。私より四つ年下の久田(きゅうでん)という男だ。
 久田はDTPの優れた知識と技術を有しており、派遣社員ながら職場内で一目置かれる存在だった。話してみると、彼が初めて就職した会社が、私が辞めた件の会社だった。当時は部署が別だったから全く面識は無かったが、話していくうちに共通の知り合いが何人かいるということが分かった。
 久田と書いて〝きゅうでん〟と読ませるその男は、酒とロックと岡村靖幸と玉置浩二をこよなく愛する面白い人物であった。次第に意気投合した私たちは仕事終わりの時間が合えば必ず飲みに行くようになっていた。
 そして週末になると、久田とともにクラブに繰り出した。仕事が終わるのが遅く、飲み始める時間が22時、23時以降というのがざらであった。自然、終電を無視して始発まで飲むのが週末の慣例となっていたが、朝まで飲み屋にいると意外と金がかかる。そこで、一度クラブに行ってみようという話になった。
 三十路過ぎて初めてのクラブは思ってたより安全で楽しかった。音楽の力は偉大だ。非日常の空間で腹に響くほどの大音量で音楽を浴びていると日々のストレスや将来への不安を忘れさせてくれた。東京では毎週末のように、石野卓球やテイトウワや中田ヤスタカやFPMなどクラブシーンの大物たちがイベントを催しており「おおー! やっぱ東京はすげいぜ!」と感動した。入場料は三千円とドリンク代。普通に居酒屋で朝まで飲むより経済的だった。

 久田は、自身が作詞作曲ボーカルとして精力的にライブ活動をするバンドマンでもあった。
「俺、バンドやってるから今度ライブに来てよ」
 学生時代からそういう人間には何度も出会ったことがある。その度にライブに足を運ぶが、アマチュアでまともなバンドに出会ったためしがない。
 久田のライブに行ったのも、友人の義理だった。音楽の技術的な部分は分からないが、純粋に「思ってたよりだいぶいいじゃないか!」という感想を抱いた。歌謡ロックを標榜していたそのバンドは、どこか昭和の匂いの残るメロディにロックのテイストを合わせており、とても私好みの音楽を奏でてていた。〝キャバレーミッション〟というバンド名でインディーズのレーベルに属しており、もう少し頑張ればデビューできるかもという段階まで来ていた。

 平日は仕事帰りに飲みに行き、週末にもクラブで朝まで飲んだくれる。そんな刹那的な毎日を過ごしていたあるとき、東京に住む叔父から連絡があった。この叔父は大手出版社の有名雑誌や書籍を多く手がける人気のアートディレクターである。
「実は今度何人かで本や雑誌の編集デザインの会社を立ち上げることになったんだけど、お前も参加しないか?お前だったらDTPも出来るし、行政書士の資格持ってるから事務関係の手続きも出来るだろ」
 そういう話であった。聞くと、他の参加者も大手出版社出身の編集者で、業界ではそれなりに名の通った人物たちであった。
 そもそも俺は出版業界の行く末を案じて、前の会社を辞めたのだ。紙媒体が減少しているこの時代にまた出版業界に戻っていくのか……。自分の中で葛藤はあったが、派遣社員という身分は未来が保証されていない。それに会社設立の生の現場に立ち会うことは行政書士的な仕事の貴重な経験になるんじゃないか。そういう結論に達し、参加することを決めた。何より、いつしか諦めていたクリエイティブな仕事をようやく出来るような気がしたのだ。叔父からは「お前が参加してくれるなら、DTPが出来る知り合いを一人か二人連れてきてよ」と言われていた。

 翌日、派遣先の職場で久田に話があると言ったら、俺も中野さんに話すことがあるんすよ、と言われた。久田は派遣先を辞めようと思ってる、ということを私に言いたかったらしい。彼の信念は明確で「その職場で学ぶことが無くなったら次に行く」ということだった。何だか道場破りをする〝さすらいの派遣剣士〟といった風情だ。
 しかし、それはこちらにとってはベストなタイミングであった。私は今度会社設立に参加しようと思っている、優秀なDTPオペレーターである久田も一緒に参加してほしい、一線級のデザイナーや編集者から学ぶことは多いだろう、ということを彼に伝えた。
 久田はその誘いにすごく乗り気になった。しかしバンド活動が軌道に乗ろうとしている時期だということで悩んでもいた。私は取りあえず久田と叔父を引き会わせることにした。
「バンド活動全然やっていいよ。むしろ『デビュー決まったから辞めます!』みたいになるといいね」
 叔父はそんなことは何の障害にもならないという風に話した。やはりクリエイティブ業界の人間は、表現活動をしている人間に対して理解が深いのだ。

 派遣先のお堅い雰囲気では〝真面目だけど変わり者〟という扱いにくい存在の久田だったが、新しい会社ではそのキャラクターが受け入れられ人気者となっていった。そう、クリエイティブ業界の人間は変わり者ほど重宝がってくれるのだ。私は総務経理の責任者兼DTPオペレーター、ほか何でも屋として従事することとなった。
 その後、久田のバンドは伸び悩んだ。
「楽曲はいい、技術も高い、ただ何かが足りない」
 レーベルの社長や音楽関係者からは、そう指摘されていた。
 久田は楽曲を作ったり、歌を歌ったり、合間のMCを考えたりすることに関しては非凡な才能を持っていたが、パフォーマーとしては微妙だった。動きがくにゃくにゃしてて気持ち悪いのだ。演劇的に言うと〝動きにキレがない〟。バンドにとってボーカルのパフォーマンスというのは、人気を左右する重要な要素の一つでもある。

 あるとき久田が「中野さん、今度〝ナレーター〟としてうちのライブに出ませんか?」と誘ってきた。聞くと、近々渋谷O−EASTで対バン形式のイベントに出演するのだが、舞台が広すぎて自分らだけでは持たないと。曲間のMCを自分ではなく、昔演劇をやっていた中野さんにやって欲しいということだった。
「MCの内容は物語を読むことです。イメージは世にも奇妙な物語のタモリです。バンドをより華やかにするために女性ダンサーも二人入れます」
 具体的にはそういう話だった。私は芝居をやっていた頃から声だけはいいと言われていた。それにO−EASTの舞台を踏むなんて経験はそうそう出来ることではない。〝世にも奇妙〟のときのタモさんくらいならやれるだろう。あまり悩まずに、その誘いを受けることにした。
 そして久田のこの戦略は当たった。普通のバンドにはないナレーターというパートは好評だった。それは私の力だけではなく、面白MCを考える久田の功績でもあった。ナレーターや女性ダンサーがいると、観客の目はボーカル以外にも散っていく。久田の気持ち悪さが目立たなくなっていたのだ。その少し後にはクラブクアトロでライブをやった。私は次々と有名なハコに立たせてもらえるのが嬉しかった。
 ちょうどこの頃だっただろうか、劇研時代の後輩に誘われて、私と近藤さんは、同人文芸誌〝溶鉱炉〟の制作にも携わるようになった。

 その後も一ヶ月から二ヶ月に一度のペースで色んなライブハウスの舞台に立った。私はナレーションだけではなく、小踊りやコーラスなどパフォーマンスの幅を広げていった。インディーズバンドが集まるコンテストでは何度も優勝した。
 いつしか私はバンドメンバーの一員として内外から認知されるようになっていった。電気グルーヴにおけるピエール瀧、ビンゴボンゴにおけるユースケサンタマリア、私の目指すところはそこであった。
 しかしメジャーデビューは遠かった。ライブをやると好評を博す。ただそれだけ。そこから一歩先へ行くにはどうしたらいいのか分からなかった。そしてそれは多くの劇団が抱える問題点と同じであった。
 私自身に関して言えば、まさか自分が音楽活動に携わることがあるなんて思ってもみなかったから、デビューとか売れる売れないとか関係なく、参加させてもらっているだけで楽しかった。それに関しては、とても有意義な経験をさせてもらったと今でも感謝している。やはり、音楽の力は偉大なのだ。

 立ち上げから参加していた会社の経営は、当初から厳しいものだった。経営陣の事業計画が甘かったというのが最大の原因ではあるが、出版不況の折、決まりかけてた仕事がいくつも流れてしまったり、取引先の倒産によって多額の貸倒金が発生したことも一因となっていた。

 久田がバンドの閉塞した状況を打開するためにプロモーションビデオを作ろうと言い出した。撮影機材や動画編集のソフトを揃えて独学で知識を身に付けていった彼は、次第に映画を作りたいという欲求にかられるようになった。
 バンドメンバーがキャストやスタッフとして撮影に駆り出されるようになった。バンド活動を休止したまま久田は短編の映画をいくつも作っていった。彼が生み出す作品はアイデアが奇抜でお世辞抜きで面白かった。
 そのまま数年が経過したある日「地元青森に帰って家業を継ぎます」と言い残して、久田は田舎へ帰っていった。彼も悩んだ末の結論だったのだろう。バンド活動は自然消滅となった。

 創業以来、何とか七年目に突入していた編集デザイン事務所はいよいよ危機的な状況となっていた。やはり、紙媒体で勝負するのは厳しい時代となっていたのだ。私もなんとか外注費を抑えようと、DTP以外の仕事を覚えていった。近藤さんに習いながら動画や写真のカメラマンをやったり、ディレクションや編集業務などもやってみた。しかし、その程度では焼け石に水であった。
 副業として行政書士の仕事も細々とやってはいたが、年に数十万円程度の売上しかなく、とてもそれ一本で食べていくことは不可能だった。
 木村はフリーとなってスマホのアプリ制作を生業としていた。しかし自分一人が食っていくのがやっとという状態だった。そして休日には緊縛師として緊縛ショーを始めた。彼なりの東京ライフは、もはや常人には理解しがたいところまで来ていた。
 近藤さんはどこでどう道を誤ったのか、女性コスプレイヤーの写真撮影にご執心だった(今現在もご執心だ)。
 そして私は、溶鉱炉の制作と小説執筆。こんな状況でも私たちは出来る範囲での表現活動を続けていた。

 ある日、苦悩した社長から呼び出された。給料を半分にして会社に残るか、それが無理なら別の仕事を探して欲しい。そう頼まれた。
 リストラ――。
 会社を立て直すには、まずそれをやらなければいけないだろう。経理の責任者として、その懐事情をよく理解していた私は会社を辞めることを決意した。
 気がつけば上京してから十七年、私は四〇歳になっていた。

 人生には「あの時が一つの岐路だったんだな」と後になって思い返すことが度々ある。私の場合、この会社に入ったことも一つの岐路だったのかもしれない。しかし自分の選択にあまり後悔はない。結果的にうまくいかなかったが、何度シミュレートしても、私があのとき会社の立ち上げに参加しない、バンド活動に参加しないという選択は考えられなかった。久田との出会いも含めて、充実した日々が送れたからだろう。


つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?