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ラベンダーの匂いがわからない

 ぼくは未来人。だからラベンダーの匂いがよくわからない。

 ぼくは遠い未来の1つから、楕円体のすべすべした白い宇宙船に乗ってここへやってきた。ここの文化は、ぼくのいた場所で疾うの昔に失われていて、半ば伝説のような……架空の物語のような扱いを受けている。それがどうだ、宇宙船を降りた目の前に広がっているものだから、とんでもなく刺激的だったなあ。
 鼻腔をくすぐる風のかおりは、記憶にも検索エンジンにも引っかからない。大気の状態や季節に目まぐるしく変化する、形容しがたい複雑なかおりだ。
 どこを向いても五感を揺さぶられるような衝撃、高揚があった。

 そんな中で、ぼくは君に出会った。(君らにとっての固有名詞とは、ぼくらには信じがたいほど大切なものらしい。だからあなたの名前は伏せておく。)
 君はぼくが初めて見た、黒い虹彩の人間だ。厳密にはその色彩は真っ黒ではなくて、海松茶色の底からすくいとったような珍しい色。
 太陽の下でも深いその瞳がうらやましくて、ぼくも瞳を同じ色にした。君は未来人であるぼくに好意的で、ぼくがここの文化を知る上でとても頼りにさせてもらった。

 君の長い髪の毛からはなにか、いつもとても爽やかなかおりがした。君はそのかおりがお気に入りみたいで、香水やボディークリームからもよく似たかおりがしたね。
「それはなんのかおり? とても涼やかな良いかおりだね。」
 ぼくはある日、君に聞いてみた。君はこう答えた。
「これは、ラベンダーのかおり。でも私は本物のラベンダーのかおりを匂ったことがないから、本当かどうかわからない。」
 ラベンダー! それはぼくが生まれる数百年前に絶滅し、もう書物でも見られないような花の名前だった。
 ぼくと君は、あまりにも長い時間を隔てすぎて何かを共有することができなかった。けれどこのとき、本当のラベンダーを知らずに、そのかおりによく似た加工物のにおいをまとう君に、少し親近感がわいた。

 ここの夜は驚くほど静かで、そして星を眺めるために暗かった。夜のとばりにかまけて、ぼくは君にたくさんのことを教えてもらった。そういう時間に必ず君はラベンダーのさわやかで苦みのあるかおりを首筋から漂わせていた。
 本物のラベンダーはどんなかおりがするのかな。人の手が加わっていない花は、どんな花を咲かせるんだろう。
 君と話してて、君もぼくとそう変わらないことに気づくのに、時間はかからなかった。シャンプーでしかかおりを知らない花の名前。君はそれに満足しているようだ。
 ぼくらと同じように。

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