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障害児を産んで

私たち家族の末っ子の「空」は障害を持って産まれてきた。
2人の子育てをしながら仕事をして、無理をしすぎた妊婦生活を悔やんでも悔やみきれない。もちろんゆっくり過ごしても同じだったかもしれないけど、この子が健常だったらどんな子に育っていたんだろうと想像して自分を責める。

例えば3ヶ月で首が座って、8ヶ月でハイハイをして、1歳2ヶ月で歩いて、3歳になったら一丁前におしゃべりして、4歳になったら公園で走り回ってサッカーをして、6歳になってランドセルを背負って小学校に行く。
そんな当たり前の幸せは、失って初めて気付くものなのだと改めて思う。


ランドセルが特別なものだなんて、健常な私たちに想像ができただろうか?
歩いて、重いものを背負えて、勉強ができること。


それでも、私たち家族は、特に特別なことなんてなくて、空が産まれてから大きく変わったこともない。
悲観しすぎることもなく(もちろん病気がわかった当初はとても落ち込んだ) 病気によって夫婦仲が悪くなったり、残念ながらとても良くなったりすることもなく、親兄弟、親戚、お友達との付き合いも特に変わらない。


それは、空がとても自然にそこにいて、ニコニコしているから。
僕がこうして産まれて来たことは、
残念なことではない、
僕がいることは当たり前で、長男が陽気な性格に生まれてきたことや、長女がおてんば娘に生まれて来たことと同じ。

普通の家族とおんなじ。
良いところもあれば、悪いところもある。
健常でも、障害があっても、みんな悩みがあって、一生懸命生きている、
みんな同じ、人の幸せは測れないと思うけど、
やっぱり大きな赤ちゃんと一緒に暮らすのは、少し大変かな。

兄弟にとっても、直接的なしわ寄せはないと思っているけど、空の病院、入院、療育、通園にかけている時間は多大なもので、週に3日から4日、私が半日潰している時間は、私たち家族にかなり影響をしていて、
その分仕事ができたら、深夜早朝に行う仕事は半減するし、その分ゆとりができて心穏やかに子育てができるし、もっと言うと週に1日だけでも他の兄弟と過ごせたらと考えると、
しわ寄せどころか、大打撃なのかもしれない。

例えばこれを「個性」というなら、何か一つだけ神様が願いを叶えてくれるとして、私の音痴を治すのでも、お金持ちになるでも、どこでもドアを手に入れるのでもなく、迷いなく、空の病気をなかったことにして普通の子と同じように成長することを願うのは、何故なのだろう?

そう思うと、特別ではないという話とは矛盾するのだけど、
私たち親の感情はただただややこしいものなのだと思う。

時には、障害児が親を選んで生まれた話に涙ぐみ、
時には、同じ話に辟易し、
健診の知らせを見ては忌々しい気持ちになり、
ディズニーランドでの好待遇に感謝する。

一つ言えることは、心身ともに健康なことこそ、何にも代え難いものだ。
私たち親ができるのは、子供達1人ずつの可能性を広げること
幸せだと思う時間を増やすこと
そして今私がやらなきゃならないことは、洗濯と洗い物と明日の用意と仕事。
どうでもいい話はさておき、現実に戻ること。

売上げの一部は、障害児のために寄付をしています。