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自分と向き合うために第三者視点を持つ

まだ社会に出たばかりの若輩者のころ

わたしは当時在籍していた職場の同僚から
「君はイノシシみたいな性格だね」
と言われたことがあった。

前後にどんな会話をしていたかは忘れてしまったが『イノシシ』と言われたことははっきり覚えてる。

そのときは何の疑いもなく褒め言葉だと受け取ったけれど、歳を重ねていくうちに

「ひょっとして悪い意味も含まれていたのか」とあの言葉に隠されている二重性に気づくことができた。


わたしは今も昔も弱くて愚かな人間だ。



物心ついた頃から極端に他人の目を気にして
他人に好かれるにはどうしたらいいかだけを考えて生きてきた。

そこに『わたしらしさ』なんて存在しない。
ただ、周りが求めるキャラを演じる日々。

そのせいか、YouTubeチャンネルを開設することになった3年前まで自分の意見をまともに言ったことさえない。


(もし他人と意見や感想が違えば非難されるかも…)


共感と同調だけで人生をやり過ごしてきた
わたしに主体性なんてなかった。

出る杭は打たれるから
自分らしさを殺し
目立たないように生きる。
批判されるのはこわい。

…自分のことながら
あまりに空っぽな生き方すぎて
笑ってしまう。

そのくせ、感情の起伏が激しくて手に負えない始末。堪えてきた不満がコップから溢れそうになる度、感情をコントロールできず、他人へ思いの丈をぶちまけては人間関係を壊してきた。


先程の「イノシシみたいだね」と言った人とも健全な付き合いができず、最後は揉めに揉めて完全終了。

ぐちゃぐちゃな私生活を抱えながら親方日の丸と揶揄される某企業に転職したものの、このときばかりは仕事が手につかなくなるくらい精神的に参って会社を辞めざるを得なかった。


いつも想定外のことが起きると
すぐ頭が真っ白になって
自分の都合しか考えられない。
他人と自分の境界線も分からなくなり
周りが見えなくなる。


まさに猪突猛進
その様子はイノシシそのものだ。


失敗ばかりで歳だけ重ねてしまった感はあるけれど、こうして昔の"痛い自分"を振り返る余裕ができるようになったのは、皮肉にも歳をとったおかげだと思う。


今頃になって良くも悪くも
あの人が言いたかった意味が
何となく理解できるようになってきた。

そして、自分の悪い癖も見えてきた。
前しか見えず物事に真っ直ぐ取り組む姿勢はあるのに、周囲や他人を気にする癖に他人からどう見えているのか客観視できていない。

仕事でも恋愛でも視野を広げることができず、感情の赴くまま自分勝手に行動することが多かったわたしに足りなかったものは第三者の視点だろう。 

では、第三者の視点とは何だろう?
コンシューマーゲームを思い出して欲しい。


たとえばRPG

ゲームをプレイするとき
プレイヤーは謎の視点からキャラクターを俯瞰して操作する。

FF6
stray

この視点は視界全体を見渡すことができるし、
周囲の状況も把握しやすい。

だけど、
現実世界ではあり得ない見え方をしている。


誰がどこから見たらこんな視点になるんだろ?


ゲームだから深く考えたことがなかったが
言うなれば

神の視点


わたしたちは主人公たちを操る
第三者の視点でゲームの世界を観察している。

それでは
FPSゲームはどうだろう?

scorn
FPSゲームではないけれど

周囲に広がる世界しか見えない。
これは現実世界と同じ

一人称視点だ


プレイヤーが見ている世界だけが描写され
それ以外は視界から全く見えていない。

臨場感はあるが視野が狭いため
周囲をキョロキョロ見ないと周りの状況は分かりづらい。

背後に至っては何があるのか全く分からないし
音もなく後ろから近づかれたら気づかないだろう。


個人的にはこの視界の狭さがネックとなって
FPS系のゲームは大の苦手だ。


しかし、ゲームの世界と違って
わたしたちのが生きる世界は
常に一人称視点である。


周りで起きていることや
状況を確認するためには視界を広げなければいけない。ただ見るだけではなく意識して見ることも必要だ。

自分自身を客観的に捉え
わたしと言う得体の知れない何かと
向き合うにはもっと多角的に
自分を見つめることが重要になるだろう。

わたしをコントロールしているのは
他の誰でもない
肉体を支配しているわたし自身。

だからと言って
「はい、今日から心を入れ替えます!」と
急に変わることは難しい。

それなら、まず自分の人生を
映画館のスクリーンで観るような感覚で捉えてみる。

映画館のスクリーンのように自分を眺める

さて、ここは誰も近づかない
ボロボロの映画館


上映される作品は

『ART OF LIFE』

これはわたしの人生、生き様である。


他人事のように
わたしの歩んだ人生のワンシーンを眺めてみる。

自分の意見を押し殺し
中身のない人生を送った
空虚なわたし

イノシシみたいな
真っ直ぐ突進する生き方しかできなかった
瞬間湯沸かし器のわたし

他人に良く見られようと
誰かの人生を演じようとしていた
体裁気取りのわたし

人生はまだ続く

でも、そんな弱くてみっともない
欠片一つ一つがわたしを構成しているんだ。

共感ばかりはもうしたくない
他人に理解されなくてもいい
意見と感想が周りと違ってもいい


わたしの人生には
誰もコントローラーを握らせない。


第三者の視点で物事を俯瞰するとき
しっかりコントローラーを握って
自分を操作しなくては。

まあ、きっと人生自体が選択肢の多い
ゲームみたいなものでしょう。

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