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どうやったらあなたみたいな子が育つ?

先日、友人Aの生誕会で6年ぶりに再会した高校の先輩は子供ができていた。「どうやったらまこちゃんみたいな子に育つの?」と言葉をもらい、驚いた。ぼくにもそのようなことを言ってくださる方がいる。この質問に、なんだかこれまでの自分を救われた。救ったのはその人の言葉であり、表情であり、出会いであり、ぼくの生きてきた過去だった。


ぼくは自分の存在を否定したくなることが、頻繁にある。中学生の時に、勉強をしながらこのように考えていた。「自分はこの手に持った鉛筆を短くすることなどしていいのか。この点いている電気、私なんぞが消耗していいのか。酸素、こんな人間が吸っていいのだろうか。。。。」ぼくは優等生だった。成績も学年唯一のオール5というやつだったし、運動もできたし、音楽もなぜか毎年合唱コンクールで指揮者賞というのをもらっていた。が、心の中ではずっと「自分なんて人間は世の中に存在してはいけない」と思っていた。案の定、心の病気と呼ばれるものになった。

今は、こう言った話を笑い話として話せるし、もはや過去の自分が本当にあんなことを思っていたのかさえ、驚く。が、頻繁にその自分に今でも出くわす。こうやって文章を元気に書いていても、根底にはそういった自分がいるし、彼の思考がすごく馴染む。死にたい、と思いながら、生きながらえることを選び、くだらないと一蹴したくなる自分を今日も生き、時々嬉しいことが起きる。止まない雨はない、というけれど、その晴れた先を目指して生きているわけではなく、雨の時代も、土の匂いも、抱きかかえて生きて行くことしかできない。

「どうやったら、まこちゃんみたいな子に育つの?」これは至極嬉しい質問だが、これから育てられるその人の子供からしたら、もしかしたら迷惑な話かもしれない。もちろん、その言葉が大きな比喩であり、挨拶の一側面であることはわかる。だから、その人に返答をするのなら、このTweetのリンク先をのぞいていただきたい。と言ってみたい。ぼくはこんな恵まれた中学には通えず、地元の酒タバコをやっている生徒がぶいぶい言わせているところに通っていた。


こんな中学は理想だと思う。そして、素晴らしい!と思える場所がこの地球上に実際に存在していることが素晴らしい。まあ、言ってみたら見当違い、ということもあるがそれでもいい。でも、この西郷さんという校長が通った中学は彼が作っているような中学ではなかっただろうし、ぼくが通ったところは紛れもなく別物だった。けれども、別物の環境で育ったぼくのような人間が「どうやったら、まこちゃんみたいな子に育つの?」と言われることは、リアルだ。つまり、この桜ヶ丘中学校に通えなかったとしても、いくらでも救いがある。

ひとつ付け加えるなら、ぼくの高校は救いだったということだ。ぼくと、そのお母さんになったMさんは、都内一と呼ばれることもある進学校に通っていた。そこも拘束はほぼなかった。唯一あった校則は下駄での登校が禁止されていた。髪色は金髪以外にも赤青黄緑そろってたし、ランチで宅配ピザ頼んだり、校長が運動会でダイブしたり、謎に石庭があったり、学食が美味しかったりした。ぼくはその高校が楽しくて、100人規模のフラッシュモブを企画したり、在学中は大学受験もしなかったし、高3の12月は同級生の受験を鼓舞するためにApple Japanの元社長さんを呼んで講演会を行ったりした。華道部だったが、運動会では応援団団長をやったり、騎馬戦では大将だったり。自慢できることがいくらでもある。本当に楽しかった。

先ほどの桜ヶ丘中学校に似ているような、生徒の自主性を重んじるエピソードがある。17歳の時にマクドナルドで放課後菰田くんと話していたら、店員さんにバイトにスカウトされた。担任にバイト許可のサインをもらいに行ったら「お前の人生なのになぜ俺が許可をだす必要がある。ばかか。」と衝撃的な言葉をもらった。ぼくはなにも考えずただバイトを下見たかったので、なんて融通のきかない担任なんだ、と思ったが、今思うとマジで正論。彼は求めればサインをしてくれるような都合のいい自動販売機ではない。学校になぜバイトの許可をもらうんだ。つまり信用されてない証拠だし、歪んだ依存でしかない。


その担任の気持ちは今ならわかる。彼が正しいと思う。そのバイトは8ヶ月ほど勤めて全部で3万円ほど稼いだ。その時、ぼくにはそこのバイトは向いていないと思った。が、先日小田原の矢郷さんの農園で柑橘狩りのバイトをしてきた。バイトと言っても、お金は一円をもらっていない。矢郷さんには猟師で元同居人でもある菅田悠介が紹介してくれた。2月某日の深夜0時に小田原駅で3人で待ち合わせをした。


矢郷さんには会って一目で「ああ!この人は好きだ!時間を共に過ごしてみたい!」と思った。だから次の日、彼の農園のお手伝いをすることを自ら申し出た。翌日朝の7時半から3時間ほど彼の農園で湘南ゴールドの収穫を手伝った。彼のギャグセンスが異常で3時間笑いっぱなしだった。だから、お金とかは正直どうでもよかったし、こういった時間を過ごすことができて、ただただ、幸せだった。働くっていうのは、こういうことか。と爆笑しながら考えたりしていた。最初、ぼくが「働きます!」と言った時、矢郷さんは冗談半分だと捉えていた。が、相手がどう思おうが、ぼくは働きたいと思ったし、それでいいと思った。信用するっていうのは、突き放すことなのかもしれない。

「お前がそれをやる必要があるなら、勝手にやれよ。俺はお前ではないから、俺は俺のことをやる。楽しそうなら俺も勝手に加わるし、必要なら声をかけてくれ。が、お互いがお互いを拒否することももちろん出来る。」

人に何かを言われて、手を止めてしまうくらいなら、そんなものやめてしまえ。と、そこまで強いことをぼくは言えるだろうか。当初の質問には、言葉ではなく、伝わったものでしか、返答することができないなと思った。彼女の質問にどうやって答えればいいのだろう。ぼくはどのように育ったか。誰が育てたか。環境か遺伝か。そういうことじゃないだろうと思う。

ここまで書いた今思ったのは、理想を持って子供を育てない。ということだ。子には子の人生があり、親には親の人生がある。お互いのエゴがあり理想があるから、親の理想が子供の可能性を潰すようなことをしては欲しくない。子が、なにかを願ったときに、その障害を一緒に取り除いたり、横で感情や体験を共有したり。そういうことかなと思う。






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