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推し活の倫理学②

推し活の倫理学②として、今回は、「メンバーランダム」方式のグッズやサイン会・お話し会に感じるモヤモヤを哲学してみたいと思う。

今回だけでも読めますが、シリーズ一回めの推し活の倫理学①はこちら。
前回は「CDを積む」という行為について考えてみました。


「推し活の倫理学」とは

わたしは中学生の頃からひっそりと韓国系アイドルのオタクをしている。いわゆる、推し活である。
推し活をしていると、時折、わたしの倫理観が試されている、と思うことがある。メンバーを指定できないサイン会の申込とか、金額に応じてもらえるお見送り会の抽選券とか。そういうものを目の前にしたとき、わたしはどうしたらよいのだろう、と途方に暮れてしまう。

推しを前にして、わたしはどのように倫理的であれるのだろうか。推し活をしながら、倫理的な選択・行動をすることのむずかしさに日々悩まされる。

「推し活の倫理学」は、推し活のなかで自分の倫理観が揺るがされるその瞬間に、わたしが心のなかで葛藤していることや考えていることを言語化することで、推し活を哲学してみようという試みである。
対象がアイドル以外でも、なにかしら「推し活」をしている誰かがこれを読んで、わたしと一緒にうーんと首を捻ってくれたらとてもうれしいです。



「メンバーランダム方式」について考える

わたしの推しているアイドルは、CDやグッズ、特典会でメンバーランダム方式をとってくることがある。
例えば、CDにランダム封入されているトレカや、ガチャガチャで売られる缶バッジ、特典のサイン会・お渡し会を目の前にしたとき、わたしは、また自分の倫理観が試されていると思ってしまう。

グループメンバー全員が大好きなことはもちろんであるが、しかし、推しメン以外のものがあったらどうしよう、わたしよりも「これ」に値する人がいるのではないか、そんなふうに思うと、グッズや申込をためらってしまうことがある。

メンバーランダム方式に直面したとき、わたしはどうするのが正解なのだろうか。究極的には、推しメン以外のメンバーをどう考えたら、どう接したらよいのだろうか。


1. 推しメン以外のメンバーが当たったらどうする?

メンバーランダム方式であっても、特典のトレカや販売されているグッズであれば「交換する」という選択肢がある。
交換する行為自体の是非や、格差社会うんぬんの議論は一旦ここでは置いておくことにして、「交換する」ことのできない特典については、どう考えたらよいのだろうか。

例えば、メンバーランダム方式のサイン会の抽選券付きCDが売っている場合、わたしは「推しメン以外のメンバーが当たったらどうしよう」と思う。

自分の推しメンのサイン会に、別のメンバーを推している人が参加するとしたら、わたしのほうが好きなのに!と思ってしまうような気がして、
自分が逆の立場になること、すなわち推しメン以外のメンバーのサイン会に参加することも、同じように許されないことなのではないかと思ってしまうのである。

その限られたわずかな枠に自分が入ってしまうこと、それに自分が本当に値するのだろうか、と悩んでしまう。

しかし、そもそも自分の推しメンが当たったとして、自分がそれに値するかというと、それもまた疑わしいのである。
同じメンバーを好きな全てのファンのなかで、自分の愛がどのくらいに位置付けられるかなんてわからないのだから、
わたしよりそのメンバーを好きな人が落ちて、わたしが当たってしまうかもしれない。あるいは、イチ推しではなくても、わたしの推しメンへの愛がわたしより多いかもしれない。

こうなってくると、わたしは、どうしたらよいのか本当にわからなくなってしまう。


2. そもそも、推しメン以外のメンバーにどう接すれば良いのか

こうなってくると、推しメン以外のメンバーに対して自分がどのような態度をとるべきなのか、さまざまな場面で頭を悩ませることになる。

例えば、ライブやイベントではどう振る舞えばよいのだろうか。
推しメン以外のメンバーが目の前にいるとき、ファンサを求める、あるいは誘発するような行動を取ることは許されるのだろうか?

わたしは先日のライブで、なぜか幸運にも(ほんとうに幸運にも)推しメン含むほぼ全員のメンバーに盛大な確定ファンサをもらってしまい、天にも昇る気持ちだった(もはや昇った)のだが、
わたしのせいで、わたしよりそのメンバーを好きだった人たちがファンサをもらえなかったのではないか、と思うと、なんだか居た堪れない気持ちがした。

他にも、推しメン以外のメンバーがソロ活動をしている場合、単独のサイン会やイベントへの参加は、どこまで許されるのだろうか。
わたしが申し込むことによって倍率が上がってしまって、わたしよりもそのメンバーが好きな人が落選してしまったら、と思うと、メンバーランダム方式のときより確実に悪いことをしているような気がしてしまう。


おわりに

推し活に限らず、なにもかもが椅子取りゲームのようなこの社会で、わたしはどのように倫理的であれるのだろうか。

わたしがそれに「値する」のか、ということは、考えること自体がとてもむずかしい。なにが「値する」ための条件なのかとか、そもそも「値する」人なんているのかとか、好きの大きさをどう比較するのかとか、関連する問題は山積みである。

そもそも、こんなことを考えること自体が無駄だと思う人もいるかもしれない。あるいは、倫理的であるためには推し活自体をやめるべきだという意見もあるかもしれない。
それでも、わたしはそんな冷たい理屈で一蹴してしまう前に、自分が推しを大切に思うこの気持ちや、多くの人が推し活に魅了されているこの社会をまっすぐに見つめて、もう少しだけ考えてみたいと思うのである。

ということで、次回もめげずに、「推し」と「好き」のちがいについて考えてみようと思う。例えば、推しから連絡先を渡されたらどうするべきかとか、推しにガチ恋をしてはいけないのかとか、ひいてはアイドルとはなにかということについても考えてみたい。
もし気になる人がいれば、また一緒に考えてくれるとうれしいです。



読書案内

シリーズ一回めはこちら。今回面白いと思ってくれた人は、ぜひ前回ものぞいてみてください。

今回も、推し活というよりかは、自分がそれに「値する」のかや競争社会について知ることのできる本を選びました。前回に引き続き、推し活の哲学や倫理学に近いような研究や文献については、いくつか見つけてはいるのですがまだあまり手をつけられていないので、お手柔らかにお願いいたします。


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