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なぜ哲学を学んでいるのか

気づけばまた春がきて、わたしはもうすぐ大学4年生になる。大学に入ってからいままでを振り返ってみると、偶然のようでありながら必然のようでもあるわたしと哲学との出会いが、わたしの大学生活に大きく横たわっていることに気づく。

4月がはじまってしまう前に改めて、自分がなにをしているのか、いまどこにいるのかを、できるだけありのままに残しておきたいと思って、いまこのnoteを書いています。

なぜわたしが哲学を学んでいるのか、哲学といいながらどんなことを学んでいるのか、どんな気持ちで哲学対話に関わっているのか、、、そんなことを通して、哲学というものをみんながぼんやりとわかってくれたらうれしいです。
また、わたしのちょっぴり臆病な気持ちや心の奥底の弱い部分が、わたしの哲学を支えているんだなーということを誰かにわかってもらえたらいいなとも思っています。


ちなみに今回のカバー画像は、ジブリパーク内にある哲学研究室(映画コクリコ坂に登場)で撮影した写真です。去年の夏に行きましたが、とっっってもよかったです。


1. なぜ哲学を学んでいるのか

わたしは大学に入って以来、文学部教育学科に所属しながら、なぜかずっと哲学を学んでいます。

実はわたしは、大学進学の時点で哲学を学ぼうと決めていたわけではなくて、ただなんとなく、環境問題や社会問題といったことの正しくなさについて考えたり学んだりすることができたらいいなあと思っていました。
その一方で、部活で将棋やディベートをしていたこともあって、論理的なものの見方や考え方が自分にすごくしっくりきていて、そこを突き詰めるために大学では数学を学ぶのもいいなあと思っていました。

環境問題・社会問題と数学というこのふたつの分野は、当時から自分のなかではゆるやかに繋がっていて別々のものでは決してなかったのだけど、そのときのわたしはまだそれをうまく整理して説明することができず、どこへいけば自分のやりたいことができるのかは分からないままでした。
結局、とにかく(自分ががんばれば)どちらもできそうだと思えた大学をいくつか受験してみて、気づいたらいまの大学にいた、というのがわたしの実感です。

いま思えばわたしはとても幸運だったのだけど、大学1年の秋頃にたまたま受けた講義で、さっきのふたつの分野だけじゃなく、わたしの中にあった問題関心や燻っていた思いや、とにかくいろんなものが、哲学の海でなら繋がっているんだ、と感じられた瞬間があって、これがわたしと哲学との出会いになりました。

みんなが哲学をどんなふうに捉えているかわからないけれど、哲学の問いというのは「言葉にならない怒りとか、喜びとか、悲しみとか、体に根ざした感情が必ず伴っています」(藤原辰史『食べるとはどういうことか』)。わたしには、胸がいっぱいいっぱいになってしまうほどの強い感情があって、ここから社会について考えることを許してくれた、肯定してくれたのが哲学でした。
それと同時に、哲学のやり方・考え方はすごく論理的で、わたしにとって数学と同じくらいしっくりくる「道具」だなと思ったし、いまでも思っています。これは伝わるかわからないんだけど、わたしにとっては数学と哲学が同じように感じられたというか、こういうことがやりたかったんだ、と思ったということです。

これがわたしと哲学との出会いであり、わたしがいまも哲学を学んでいる理由でもあります。

2. どんなことを学んでいるのか

哲学と一括りにしても、実際にどんなことを学んでいるのかとか哲学とはなにかとか、まだまだイメージしづらいところがあると思うので、わたしが学んでいることをできるだけ具体的に説明してみたいと思います。

まず、哲学と聞いて一般的にイメージされるような、西洋哲学史を一通り学びました。過去の哲学者がどんなことを考えたのかとか、どの時代にどんな哲学者がいたのかとか、そういう感じの内容です。そのなかで関心をもった分野や哲学者については、もっと詳細に掘り下げて学んだり、原著にあたったりもしました。

加えて、「哲学」自体を学ぶのではなく、自分で問いを立てて「哲学する」ということも学びました。哲学的なものの考え方、書き方を学びつつ、自分の問いのまわりにある先行研究や関連する文献にあたって、それを足がかりにして問いを進めていく、みたいなことをしています。
わたしはゼミ論では「わたしたちは過去の差別に責任を負うのか」という問いをたてて、差別とか責任とかについてぐるぐる考えました。
最近は、責任も引き続き関心がありながら、マイノリティとマジョリティの関係とか、正しくない仕組みのなかで正しくあろうとすることとか、そんな感じのことに関心があるので、それを深められそうな知識とか考え方とかを勉強しているところです。

ほかにも、哲学対話と呼ばれる哲学実践も学んでいます。哲学対話について、詳しくはこちら。

わたしは、哲学対話の教育的効果や、心理的・知的安全性のある場づくりがいかにできるかということに関心があるので、いろんな場所の哲学対話に参加してみたり、先生の研究に連れて行ってもらったり、自分でファシリテーションをやってみたり、実践研究としての哲学対話に関わっているという形になります。

3. なぜ哲学対話をやっているのか

わたしは、哲学対話がたのしくて参加しているというよりかは、対話のしんどさや苦しさを感じつつも、これになんとなく意味がある気がする、と思ってしまって辞められずに続けている、という人間です。

わたしは考えるのが好きだけど、好きだからこそ、それを誰かと共有することにすごく抵抗があって、自分がずっと時間をかけて大切に考えてきたことを、対話の一瞬で誰かに破壊されてしまったらどうしよう、と思っていつも怯えています。だから哲学対話に参加するときはいつもとてもこわいし、対話のなかでひどく傷つけられたと感じたり誰かを傷つけてしまいそうでなにも言えなくなったりしてしまう。
わたしにとって哲学対話は、わたしの心のいちばんやわらかい部分を相手の目の前に無防備にさらけ出さねばならない場であり、同時に誰かの心のやわらかい部分を自分の手のひらにどんと置かれてしまう場でもある、そう思っています。

それでも哲学対話にずるずると関わっているのは、自分1人では見つけられないなにかがみんなでなら見つけられるかもしれない、という哲学対話のスタンスがとても好きだし、そうであってほしいとわたしが願っているからです。
この世の中は正しくないこととか美しくないことで溢れていて、わたしはそのどうしようもなさに打ちのめされたりおろおろしたりする日々を送っているけれど、本当にどうしようもないのだと諦めてしまいたくはなくて、自分には見つけられない答えや道を誰かが知っているかもしれないというその希望を信じていたい。逆に、わたしが世界を救う一手を、わたしのこのどこかにもっているかもしれないという希望も同時に信じていたい。

哲学対話をする度に、その希望の光を見たような気がして、だからわたしは辛くても苦しくても、哲学対話をやめられずにいるのだと思っています。おそらく、これからも。

おわりに

哲学を学んでいる大学生の今この瞬間に感じていること、思うことを残せたらと思って書きました。まだまだ大学生の身であり、知らないことや分かっていないこともたくさんありますが、今回の話はわたしの目線から見た「哲学というもの」だとご理解いただけると幸いです。
大学生活は残り1年間ではありますが、これからも哲学と共になんとか生きていきたいと思っています。

これを読んだ誰かが、新しく哲学に出会ってくれたらうれしいです。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。またどこかで会いましょう。


読書案内

もしこれをきっかけに哲学対話や哲学に関心をもってくれた人がいたら、こちらもぜひ読んでみてください。

以下、今回は、中高時代の自分の価値観をつくった本をいくつか選んでみました。いまも宝物な本ばかりです。


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