見出し画像

祖父はコックとして真珠湾攻撃に行った

パールハーバーから今年で80年になると、先日のニュースが伝えていた。報道ステーションとnews zeroでは、生き証人とも言える御年103歳の元軍人、吉岡政光さんがテレビのインタビューに答えていらした。「人がそこにいると分かっていたら攻撃などしなかった。わたしたちは、ただ命令に従うしかなかった。ハワイにはあれ以来一度も行ってない」など、胸を締めつけられるような言葉が胸に響いた。

2400人以上もの犠牲者を出した真珠湾攻撃。例年なら、毎年流れるこのニュースをただ見るだけだったが、今年は違った。吉岡政光さんの存在が、私に祖父と、そして家族のことを思い出させたのだ。

私の祖父は軍艦のコックだった。空母や潜水艦のなかで軍人たちに食事を提供する仕事を、当時はコックとは呼ばずに「飯炊き」と呼んだ。

「軍人たちにはよくカレーライスを出したよ。食べ終えた皿は固形石鹸で洗った。皿にこびりついたカレールーと固形石鹸の成分が混ざると、どういう化学変化なのか、真っ赤な色になるんだよ」

祖父は、幼かった頃の母によくこんな話をしていたという。

真珠湾攻撃の前夜、祖父は魚雷に乗って特攻に出る軍人たちのためにアイスクリームを作ったという。当時の日本人にとってアイスクリームはとても贅沢だったけれど、明日には人生が終わる最後の晩餐なのだから、ご馳走をふるまってもいいじゃないか。祖父はそんな気持ちで潜水艦の狭い厨房に立っていたという。

翌日、真珠湾攻撃の日。奇襲攻撃を仕掛けるまさにその最中、祖父は攻撃の逐一を日記に書き留めていたという。彼は軍人ではなくコックだったから、ひたすら観察することに徹した。昨夜アイスクリームをふるまった若い兵士たちが、次々と魚雷で海に突っ込んでいく。アメリカの艦隊に衝突する時のすさまじい爆音、黒い煙が海上に立ち上る。歴史資料で見るあの光景を、祖父はその目で見て、一生忘れないようにとペンを走らせていたらしい。

以上の話は、母から時々聞いていたから、よく覚えている。じつは私は生前の祖父とは交流がほとんどなかった。終戦後の祖父は、まるで魂が抜けたようになってしまい、働くこともできず、家族に大変な苦労をさせてしまった。そのせいで家族が仲たがいし、祖父と祖母が別居したせいもあって、私は祖父の口から直接、真珠湾攻撃のことを語ってもらう機会はなかった。

祖父は今で言うところのPTSDだったのだろうが、当時はそんな病名も、あるいは概念すらなかった。祖父は家で毎日のほとんどを読書して過ごし、たまに横須賀基地に荷物を運ぶトラック運転の仕事をしていたという。基地のゲートで米軍とちょっとしたやりとりを交わす際に身に着けたのだろうか、片言だが英語もしゃべっていたらしい。しかしそれでは一家を養っていくことはできず、祖母は女手一つで働いて子供たちを養った。終戦直後の社会では、男が一家の大黒柱になれない状況はたいへん世間体が悪く、それが夫婦の不仲の原因にもなった。特に、長男(私の叔父)と祖父の関係はとても悪く、それは二人がこの世を去るまで憎しみが続いた。

私が産まれた頃には、祖父と祖母は別々に暮らしてすでに何年も経過していた。幼い頃、一度だけ祖父の家に連れて行ってもらったことがある。祖父は小さな庭でガーベラの鉢植えを育てていて、私は彼に「ガーベラじいさん」というあだ名をつけた。祖父に会ったのはその一度きり。だから私のなかで彼は今でも、ごわごわしたオレンジ色の大きな花びらに水をやっていた「ガーベラじいさん」の印象のままだ。真珠湾攻撃のイメージとは程遠い。毎年、12月8日がやってきても、祖父を思い出すことはほとんどなかった。

しかし先日、報道ステーションで103歳の吉岡政光さんが登場され、インタビューで当時の話をされている様子を見て、私のなかで歴史が急激に身近なものに変わった。ずいぶん昔に亡くなった祖父だったが、吉岡さんは今もお元気で、頭もしっかりされていて、記者の質問に答えていらっしゃる。吉岡さんがいるということは、祖父もかつては確かに生きていたのだ。もしかしたら、潜水艦の「飯炊き」だった祖父のことを覚えていらっしゃるかもしれない! そんなふうに想像したら、言葉にできない複雑な感情が一気に込み上げてきたのだ。

幻の祖父の日記

母は私に祖父の日記の存在をよく語っていた。真珠湾攻撃のまさにその最中、祖父が書き留めていた日記はかなり詳細で、簡単だが攻撃の様子がよく分かる絵まで描き添えていたらしい。揺れる潜水艦の中でのことだから、きれいな字ではなかっただろうし、緊急事態に人が書き残す最期のメモのような震える字だったというが、それでもかなり詳細で「これは歴史的な資料だ」と思える代物だったという。

その日記を祖母と叔父は捨ててしまった。戦後、働かない祖父を二人は憎み、蔑み、彼が大切にしていた日記を疎ましく思った。だからわざと捨ててしまったのだ。「こんなものばかり書いて!」と罵りながら捨てたという。

母の話によれば、祖父はよく「俺の人生はあのとき(戦争のとき)で燃え尽きた。あとの人生はお釣りみたいなもんだ」とぼやいていたという。私から見て、祖父は戦争の負の遺産を抱えたまま生きたのだと思うし、真珠湾攻撃はたとえ軍事攻撃に直接関わっていない者にも、相当に精神的なダメージを与えるものだったと分かる。しかし祖母と叔父は、「あなたにとって人生はお釣りでいいかもしれないけど、こっちは生きて行かなきゃならいんだ!」と激怒していたそうだ。

戦争で燃え尽きた祖父と、バイタリティーあふれる祖母と叔父。こんなふうに書いていると、じつに悲惨な家族の物語に思えてくる。しかし事実なのだから認めるしかない。祖父の日記が今も存在していたらと思うと、私は悔しくてならない。せめて日記は日記、祖父は祖父だと、二人が切り離して考えてくれていたらと嘆くが、当時の家族の状況は経済的にとても貧しく、心にゆとりもなかったから、日記を書いたり読書をしたりなどという行為自体が、家族への裏切りに見えたのかもしれない。

歴史はめぐる

祖父の話は、母から聞くのと祖母や叔父から聞くのとでは180度異なる。後者の二人からは悪口しか聞かなかった。時代はすさまじい速さでめぐり、戦争の話など若い世代は考えることもなくなった。私も大きくなり、大学生になると、アメリカに留学した。そこで出会った親切なクラスメートからクリスマスに家に招かれ、ローストした立派な七面鳥をご馳走になった。ほかにも、手作りのパンプキンケーキや、クランベリーソース、ワインにソーダ、料理名の分からないたくさんの豪華な総菜などで、テーブルは鮮やかに彩られていた。クリスマスなので離れた州にいる家族が大集合していて、そのなかの一人になぜか私も入れてもらった。

クラスメートのお爺さんは退役軍人だった。テーブルを囲む彼は、いかにも白人紳士といった物腰柔らかな風情の人で、私が日本人だと分かると、終戦直後の横浜港の様子を私に語って聞かせてくれた。

「あのときの横浜港はぐちゃぐちゃでね。船を着けることさえできなくてね、海上で二日も待機したんだよ」

お爺さんは話すときにどこか昔を懐かしむような表情をしていた。私は自分の祖父がパールハーバー攻撃の潜水艦に乗っていましたとは告げられなかった。コックだったにせよ、間接的にもあの攻撃に関わっていたことには違いないのだ。元敵国の日本人をクリスマスに家に招いてくれ、七面鳥まで出してくれる退役軍人のお爺さんに対して、私は気まずいような、後ろめたいような気持になった。

あのとき、横浜港の話をしていたお爺さんの表情は、今でも鮮明に思い出せる。少し笑みをたたえた、懐かしむようなあの表情。同じ太平洋戦争を経験したはずなのに、戦後はこうも違うのかと思った。

叔父は結局、亡くなるまで祖父と和解することなく恨み続けた。叔父とは違い、母は祖父を慕っていた部分があって読書好きになり、自力で大学の文学部に入った。二人の本好きの傾向だけは、どうやら私にも受け継がれたようだ。

ここに書いたすべては私にとって遠い過去のことで、ふだん思い出すこともなかった。しかし先日の吉岡政光さんのインタビューが、私を過去に引き戻してくれた。私の家族の物語は、今更どうにもできないことばかりだ。他人に話したこともない。ハッピーエンドでもないし、何の教訓もない私の家族の話など、誰が聞かされて面白いと思うだろう? 

だけど今日、noteに書き留めてみようかなと思ったのは、まぎれもなく吉岡さんの影響だ。祖父の日記はもうないけれど、祖父の日記というものが存在していたことだけでも、せめて書き残しておこう。そう思った。

サポート頂いたお金はコラム執筆のための取材等に使わせて頂きます。ご支援のほどよろしくお願いいたします。