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アジア人、コロナ、この国から出て行け!

お笑い芸人の村本大輔さんが、ニューヨークの深夜の路上で罵倒されたというツイートが話題になっている。「アジア人、コロナ! この国から出て行け!」と叫ばれたそうだ。ヘイトを発したのは車椅子に乗ったお婆さんだという。村本さんのこのツイートに対して、私は以下のようなリプライをした。

「アメリカの障碍者は強いんですね。自分が車椅子に乗っていても他人を差別までする。日本の障碍者みたいに、ただただおとなしくするように社会から無言の圧力を受けているのとは違うんですね」

私のこのリプライに対して、多くの方々から、「村本さんのこのツイートひとつでアメリカの障碍者を強い、日本の障碍者が圧力を受けていると決めつけるなといったリアクションをもらった。また、日本には乙武洋匡さんという、不倫もパワハラもする最強の障碍者がいるだろうといった、関係のない人まで揶揄するリアクションも受け取った。なので今回、私は自分自身の体験に基づいた、日本とアメリカの障碍者について綴ることにした。

最初に伝えておきたいのは、私は村本さんへのツイートを心底そのように思って書いた、ということだ。私の中では紛れもなく、日本の障碍者よりもアメリカの障碍者の方が、人間として当たり前のことを当たり前に楽しめる環境にあると思っている。アメリカ社会のすべての側面が、日本よりも優れていると言っているのではない。あくまで障碍者をめぐる私の体験から見て、そのように感じるだけだ。そこは拡大解釈しないでほしい。

障碍者を家族に持つという複雑さ

私には3歳年下の妹がいて、彼女は生まれつき脳性麻痺を患い重度障碍者の手帳を持っている。生まれて間もなくして車椅子生活を始めたので、私は幼い頃から妹の車椅子を押して歩いていた。幼心に感じたのは、町を歩くたびに、店に入るたびに感じる周囲からの視線だった。一家四人がそろって歩く中に車椅子が一台紛れ込んでいる光景は、世間の人々にとっては普通ではないのだろうか? すれ違う大人も子供も驚いたように私たちを眺めた。好奇の眼差しもあれば、見たくない物を見てしまったような困惑した眼差しもあった。私にはそれらはすべて、こちらの心を刺すような堅く冷たい視線だった。まだ子供だったから敏感過ぎたのかもしれないが、妹も傷ついていたと思う。言葉などなくても視線だけで、人は人を傷つけることができることを私は知った。

村本大輔さんは独演会で定期的に「マイノリティの回」というものを開催している。様々なハンディを抱える人たちをゲストに呼び、これまでの人生について話をしてもらい、村本さんが司会をつとめる。私は「マイノリティの回」には欠かさず足を運んでいるが、そこでゲストの方々が「世間の視線が辛かった」というエピソードを話していたのを聞いて、私は深い共感を得た。私だけではなかったんだ。私だけが敏感過ぎたわけではなかったんだ。

私と妹にとって視線は社会の空気そのものであり、視線によってまるで手足を縛られるような窮屈さを感じてきた。抱える障碍の種類こそ違っても、私たち姉妹と似たような境遇で生きてきた人にとっては、この視線問題は共通する苦しみだと思っている。私は村本さんが開催してくれた「マイノリティの回」によって、今までずっと視線問題を感じてきたことを噛みしめ、そしてその辛さを口に出していいのだと思えるようになった。こうしてnoteを書くまでに私自身の心が解放されたのも、村本さんのおかげだと思っている。

日本の視線を変えた乙武洋匡

乙武洋匡さんの「五体不満足」が発売されてベストセラーになったことは、私の家族にとって大きな衝撃だった。人生を変えてくれたと言ったら大袈裟かもしれないが、少なくとも、この本のおかげで私たち家族は以前よりも町を歩きやすくなった。乙武さんという人物が話題になることで、社会の視線が変わったのだ。

それまでは、エレベータが開いて車椅子に乗る妹が現われると、露骨にぎょっとした顔をする人なども普通にいた。それが乙武さんの本が売れて以来、「あ!障碍者だ!」と声に出して近寄ってきて階段を手伝ってくれたりする人も現れた。障碍者に対して見て見ぬふりをする社会から、積極的に存在を受け入れようとする社会へと変わっていくのを、当時の私は肌で感じた。それは暗いトンネルの先に光が見えるような感動に近い感覚だった。

しかし乙武さんが有名になることで、かえって窮屈に感じる現象も生まれてきた。当時の乙武さんは優等生のイメージで、明晰な頭脳と前向きな心があれば、ハンディを乗り越えられるといった考えが世間に浸透し始めたのだ。そして障碍者はみんな努力家、前向き、じつは頭が良いといった単純化された理想を抱かれることも増えた。スーパースター乙武さんに憧れて、自分もその理想に近づこうと、無理をしてでも努力を重ねる障碍者仲間もいた。

私の妹のように知恵が遅れていたりすると、乙武さんのようにはなれないけれど、私たちも頑張っているんだ! となぜか勝手に条件付きで自分たちを励ました。親や兄弟、そして養護学校の先生や施設の職員までもが、当時は乙武さんの存在を励みにした。それほど彼の影響は絶大だった。母が当時よく、「うちの子は乙武君の足元にも及ばないけど、乙武君と同じ車椅子に乗っているわ」と、親としての自虐なのか何なのか分からないジョークを嬉しそうに飛ばしていたのをよく覚えている。

言葉の代弁者

どうして当時の私の家族は、そして私が知りあった多くの障碍者およびその家族は、乙武さんの存在をあんなに励みにしていたのだろう? それは、それまでずっと、みんな多くのことを我慢してきたからではないだろうか? 私の親の世代においては、障碍者がもっと生きやすい世の中にしてくれと主張することはタブーに近かった。そんなことを主張したら周りから煩がられるとか、嫌われると思っている人が多かった。健常者の人々が作る世間に受け入れてもらうためにずっと頑張ってきたのに、そんな主張をして周りと溝を作ってしまうくらいなら我慢した方がいい。例えば、ファミレスの入口にスロープがなかったら、スロープを付けてくださいと訴えるのではなく、階段を登れない自分たちが悪いのだと思うことにする。そんなふうにして生きてきた人が、じつに多かったのだ。

 自分の子供が障碍児であることを隠している親もいた。私の祖母は、妹が障碍児であることがバレたら、私が学校でイジメられるかもしれないから隠せと言った。養護学校の先生の中にも、努めているのが養護学校であることを隠している先生もいた。今では考えられないようなことが、ほんの二、三十年前はよくあったのだ。

小学校4年生の時、担任の先生から突然呼び出されて「妹さんのことを作文に書かないか?」と声かけられたことがあった。「どうしてですか?」と驚いて問い返すと、「県のコンテストがあって、妹さんをテーマにして書いてくれたら良い点数が取れると思うの。もしかしたら県で入賞できるかもしれないし、そうなったら先生嬉しいから」と誘われた。普段、私のことなど気にかけているような担任ではなかったから、突然の誘いに絶句した。私は反射的に「書きたくないです」と断った。すると先生は触れてはいけないことに触れてしまったみたいに顔をぱっと曇らせると、困ったような顔で職員室に戻っていった。

私の妹は隠されるべき存在か、あるいは県で優勝を狙う作文のテーマになるべき存在なのか? 脳性麻痺をもって生まれただけで、どうして両極端なイメージを持たれるのだろう? 隠すか晒すかではなく、人間ならその中間があることに、普通の部分があるかもしれないという当たり前のことに、どうして先生や世間の人たちは気づかないのだろうか? 私は子供ながらに社会を憎んだのだと思う。妹のことを書くことは絶対にするまいと思った。

それから十年の歳月がたち、乙武さんが颯爽とした笑顔でテレビに出て、「バリアフリーの社会になるといいですね、バリアフリーとは具体的には…」と語る時代がやってきた。私たちが長年黙ってきたことを、乙武さんが代わりに主張して社会を変えてくれるのではないかと期待する心が膨らむのも、不思議ではないと思った。もちろん福祉も政治も、それまで何も動かなかったわけではない。五十年前、三十年前に比べて、時代は少しずつでも確実に障碍者福祉の向上に努めてきた。けれど乙武さんがテレビで喋る爆発力は、地道な政治的進歩とはまた別の次元で、私の家族のような人々に漠然とした希望を与えたのだと思う。乙武さんは作文コンテストのテーマにしろと他者から押し付けられたから喋っているのではなく、堂々と自分が喋りたいから喋っている。人間としてその当たり前の姿が私には衝撃だった。

アメリカの障碍者

大学生になり、私は初めて家族を離れてニューヨークに行った。初めての海外生活に初めての一人暮らしにと、慣れないことが一気に押し寄せてきて新鮮だった。なかでも最も新鮮だったのが、単身の留学生である私には日本でずっと付きまとっていた、障碍者の妹の世話をする姉というレッテルがなくなったことだった。あの家は特殊な家庭環境だというレッテルを貼ってくる社会から解放されて、私は自由に息が吸えるような気がした。

大学で初めてボーイフレンドができた。ブロンドのカーリーヘアが特徴の白人のクラスメートで名前をマックスと言った。付き合い始めてすぐにニューヨーク北部にある彼の家に招かれることになった。日本人のガールフレンドを親に紹介したいとのこと。緑の多いシラキュースの一軒家を訪ねてみると、そこにいたのはご両親とお姉さんとお兄さんと、そして障碍者の弟だった。

弟の名前はクリストファーと言った。クリストファーが障碍者であることをマックスは事前に私に知らせてくれなかった。やがて気づいたことは、マックスにとって弟が障碍者であることは、わざわざ事前に知らせるべき内容でもないと思っていたということだった。彼の家には一週間ほどステイさせてもらったが、翌日にはクリストファーのヘルパーさんがやってきて、半日ほど一緒に遊んで帰っていった。さらに翌日には家族そろってレストランに行った。私の妹とよく似て知的障害のあるクリストファーは、食事中に大きな声を出して笑ったり、テーブルの周りを駆けまわったりしたが、家族はなだめながらも一緒に笑い食事を続けた。ウェイターや周りの客たちはクリストファーの大きな声に驚いて一瞬こちらを見たが、彼の状況を瞬時に理解したのか、何事もなく店の風景は続いた。突き刺さるような周囲からの視線のなさに、私は身構える前に肩透かしを食らったような気分になった。ほっとした。

マックスの家族はとても自然体だった。初めて家を訪れた日本人の私に対してもクリストファーを隠すことなく、ヘルパー訪問の様子も食事の様子も、ありのままの日常を見せていた。世間に対して身構えたり、見えない空気を警戒したりすることなく、あくまで普通に暮らしていた。

むしろ身構えていたのは私の方だった。私は初めての彼氏に障碍児の弟がいたことに強いショックを受けていたのだ。日本で私をずっと窮屈にさせてきた「障碍児の妹の世話をする姉」というレッテルからようやく解放されたと思ったのに、好きになった人に障碍児の弟がいた。私は弟の存在などまったく知らずに自然に彼を好きになった。それはつまり、私の心の深い部分に障碍者という世界から切り離せない何かがあったからなのではないか? 障碍児の弟を持つマックスには、どこか私と同じ匂いのようなものがあって、私はその匂いに無意識に惹かれたから、彼を好きになってしまったのではないのか? ということは、私は今後一生、障碍者を身内に持たない家庭出身の人、つまり健常者だけの家庭で育った人とは、恋に落ちることができないのだろうか? そんなことを鬱々と考えてしまっていた。

肝心のマックスは私がそんなことに悩んでいるとはつゆ知らず、リビングを駆けまわるクリストファーと一緒に遊んでいた。彼のお母さんの方が、私の妹に共感してくれたらしく、ソファーで私に向かって「differentable という言葉を聞いたことがある?」と言った。

differentable? それはなんですか?」と問いかける私に、お母さんは丁寧に教えてくれた。

「昔の私たちは障碍者のことをdisabled peopleと呼んでいたの。でもそれはable (能力)がdis(無い)という意味になって侮蔑的なニュアンスだった。そこからhandicapped peopleと呼ぶように変えたの。でも、それでもなんだか後ろ向きなニュアンスがするからと、最近ではdifferentableと呼ぼうという動きがあるのよ。他人とはdifferent(違った)able(能力)がある人、と捉えようという発想から生まれた言葉なのよ」

残念ながらdifferentableという言葉は英語圏に根付かなかった。長すぎるし発音しにくいからだ。ディファレントエイブル・ピープル。しかしdifferentableという発想は私の視野を広げてくれた。ちなみに日本語では、昔は障碍者ではなく「障害者」と書いた。差し障る(さしさわる)を意味する障に害。つまり、差し障って害がある人という意味になる。

また、マックスのお母さんは「障碍児は親を選んで産まれてくる」という信念を抱いている人だった。キリスト教的な思想から来るものなのか私には分からなかったが、障碍者になるベイビーは、天でどの親がいいか選んでから降りてくるのだと話してくれた。もちろん医学的根拠はないけれど、「子供は親を選べない」という日本とはまったく違う発想で面白いと思った。

アメリカで出会った乙武洋匡みたいな人

マックスの家族の話だけではなく、大学にも町にも受け入れる体制があった。私が暮らしていたニューヨーク市郊外の町では、大手チェーンのスーパーやレストランは、必ず1店舗につき最低1人は障碍者を雇用するという規則があった。だからどのスーパーでも車椅子に乗りながらレジを打つ人や、言語に障がいを持ちながらも接客してくれる人がいた。

大学には目の見えない学生のために、ノートテイカーという、授業中にノートを取るアルバイトがあった。大学が推進している雇用で、目の見えない学生はお金を払う必要はないが、ノートを取る人には時給が入る。金欠の学生とノートを取ってほしい学生の双方にとってメリットになるシステムだった。

私はこのノートテイカーを利用する日本人留学生と知り合った。ケンさんという人で、頭が良くて勉強家だった。性格もどこか優等生で、なんだか乙武さんみたいだなと私は思った。ケンさんは子供の頃は健常者だったけれど、中学生の頃から車椅子に乗るようになり、高校生になった年には目も見えなくなったという。日本で大学受験をしたかったけれど、彼を受け入れてくれる学習塾や予備校がなかったと話してくれた。「車椅子でしかも目も悪い人なんて、どこもお断りだよね」と自虐的な口調で明るく話す彼を見ていたら、胸の奥が痛んだ。それでもどうしても勉強がしたかった彼は、アメリカの大学なら受け入れてくれるだろうと思ったそうだ。キャンパスがバリアフリーで入学試験もないからと。

アメリカの大学はケンさんに入学許可証を送ってきて、身体状況をメールで伝えると、学生寮の1階に部屋を与えてくれた。

ドームメイト(寮での相部屋の人)は白人の背の高い青年で、ケンさんのことを色々と助けてくれた。ドームメイトが目になり足になってくれたおかげで、楽しい大学生活が送れるものと思っていた。

しかし、ケンさんはやがてドームメイトに対して、負い目を感じるようになっていったという。「僕は今まで他人に迷惑をかけないように、自分で出来ることは、何でも自分でやってきた。他人を頼ることに慣れてないのかもしれない。彼は(ドームメイト)は僕が頼んでないことまでやってくれる。彼の親切心が伝わるだけに、辛いんです。ありがとうと言い続けるのも辛いんです」そうケンさんは話した。

結局、ケンさんはドームメイトを変えて下さいと、寮長に頼んで部屋を変えてもらった。「今度は、障碍者同士で同じ部屋にしてほしい」と頼んだそうだ。それならお互い引け目も感じないし、対等に助け合えるだろうと。新しくやって来たヒスパニックの車椅子の学生とケンさんは仲良くやった。負い目を感じるような心理状態からは解放されたけれど、ひと部屋に車椅子が2台というのは、角がぶつかったりして困難なことが多かった。特に、片方がシャワーを浴びて部屋に戻ってきた時など、水滴で車椅子が湿ったりしてイライラして、思わず「ワー!!」と大声を出してしまうこともあったという。

「でもある時ふと、気づいたんだ」とケンさんは語った。前のドームメイトはけっして、無理して僕を手伝っていたわけではなかったのだと。障碍者の力になろうという使命感や、相部屋になってしまった義務感から、ケンさんを助けていたのではなくて、ただ自分がやれる範囲でストレスなくやってくれていた。それだけだった。

「僕はあれほど負い目を感じる必要はなかったんだ。どうして今まで気づかなかったんだろう?」

人はある時ふと、本当のことに気づく時がある。私はケンさんに返す言葉が見つからなかった。今まで生きてきた経験から心に壁を造ってしまうところは、私もケンさんもどこか似ているのかもしれないなと思った。

アジア人、コロナ、この国から出て行け!

村本大輔さんがニューヨークの路上で罵倒されたツイートによれば、ヘイトを発したのは車椅子に乗ったお婆さんだという。その後の彼のラジオによれば、そのお婆さんは脳性麻痺を患っていることが、顔の表情から見て取れたのだと村本さんは言う。お婆さんは一見すると微笑んでいるように見える表情で、それはじつは麻痺のせいだと分かったらしい。お婆さんはヘイトを叫んだ後、猛ダッシュで車椅子を走らせると逃げて行ったという。後を追いかけた村本さんが追いつけないほどのスピードだったそうだ。

どうしてお婆さんはヘイトを叫んだのだろう? これはあくまで私の想像だが、お婆さんは自分が体が弱く高齢者でもあるから、コロナに罹ったら重症になると恐れたのかもしない。それがヘイト発言になってしまった。しかし自分の発言が後ろめたいことだと分かってもいて、だから猛スピードで逃げたのだろう。村本さんのラジオによれば、村本さんはそのハプニングに遭遇した後、アメリカ人の友人たちに訊いて回ったという。障碍者は弱者ではないのか? 弱者から見てもアジア人は差別の対象なのかと。

「障碍者なんて弱者じゃないよ。こっちじゃあ道の真ん中をスピード出して車椅子を走らせているし、バスの中でも降ります!と大声で言う。主張もガンガンするし、弱者じゃないよ」

そういう答えが返ってきたという。

他者へのヘイトは言語道断だが、私はお婆さんを頼もしく思ってしまう気持ちを抑えられない。しかもヘイトした後に必死に逃げていく卑怯さも、なんだか人間らしいと思ってしまう。「あなたの後ろを車椅子が通りますから、少し空けてもらえませんか? ああ、ありがとうございます。エレベーター乗りますね。ああ、お邪魔します。ありがとうござます」と言い続けてきた自分を思うと、醜さも卑怯さも堂々とさらけ出せるお婆さんが羨ましい。

私の話はこのへんで終わりにする。最後に乙武さんの不倫スキャンダルについて触れておきたい。乙武さんのファンだった母は、彼のことを許さないと自分事のように怒り、今でも怒っている。勝手に理想化して勝手に裏切られたと感じている。そういう人は多い。妹は知的な問題もあって理解できないが、前ほどテレビに頻繁に出なくなったことをがっがりしている。

そして私は正直、あの不倫騒動をとても面白いと思った。理想の障碍者のイメージを担ってきた乙武さんが、初めて人間らしい一面をメディアに取り上げられたのだ。ニューヨークの路上で村本さんを罵って逃げたお婆さんにも長所がおそらくあるように、完璧な乙武さんにもダメな部分はあるという当たり前のことに、ようやく世間が目を開いてきたと思った。連日のワイドショーでゲストたちが「5人も不倫相手がいるなんて許せない。酷い、最低」と彼を罵っているのを聞いた時、私は世間の人々は乙武さんが障碍者であることをすっかり忘れたのだと思った。あるいは障碍者であろうと健常者であろうと、不倫はダメだと糾弾することで、人類が平等になったのかもしれない。

私はあのスキャンダルで、長年バリアフリーを提唱してきた乙武さんが、ついにみんなの心のバリアを打ち砕いてくれたのだと思った。ベストセラー本によって私の妹に町を歩きやすくしてくれた乙武さんは、不倫バッシングで社会をまた一歩、まだ見ぬ方向へ変えてくれることを期待している。

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