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明くる

どうしようも無い闇が、私を覆った。
黒く光った森を連れた“それ”は、私の身体中に纏わりつき、眼を隠す。
温く濁った瞳の奥。枯れた木々が囃し立てる耳の奥。咳切れた血の味に塗れた喉の奥。
遠くの山並に陽が昇り、暗がりが碧く燃えた。
濡れた枯葉の上、擦れた膝を抱いて蹲る私の、冷えた肩は小刻みに揺れる。
何処から走り続けて、此処に来たのか。
何から逃れて、此処に来たのか。
今となっては、分からない。
しかし先程まで、私を喰わんばかりであった葉の先に、美しい大気の子供達が宿り、その身を懸命に輝かせているではないか。粒の中に見る、小さな虹達。幼子の頃、夢見たその袂がそこにあった。
重たい身体を這いずり、それを口に含むと、えも云われぬ甘美な味が、舌の表面に薄い膜を張った。混濁した意識は明瞭になり、内臓の一つ一つが欠伸をしたようであった。
銀河だ。これは、銀河だ。
ふと私は、そう思った。
土に汚れたシャツの胸元から、紙の端切を取り出すと、近くに転がる石を当てつけた。文字を書かなくてはならない、つまらない病に犯されたあの気狂いじみた作家みたく、私はただ、文字を書く。
私の見た物全ての恐ろしさ、または訪れた輝かしさの、それらの何たるかを、ここに書き記さなくてはと、堪らなくなった。

やっとに書いた最後の文に、私は笑みを溢した。

今、こうして一つの花が、茂みの奥で、誰に気付かれる事もなく揺れ落ちようとしている時ですら、私は1人の紳士のように、お元気で、と繕ってしまえるのだと。
この言葉が届く相手など、とうに自らの手で壊してきたというのに。
人間というのは最期まで、誰かに縋らずして生きてはいけんのだと、己の弱さに少しばかりの愛らしさを感じて、私は笑う事が出来たのである。

青空が、やけに高く。
私は、木々に囲まれた望遠鏡の、その先を見ている。
中央に緩く飛ぶ鳶の羽根が、陽に透けて。

空よ、私は、私として生きていたと。
空よ、私は、私として死ぬのだと。
認めてよいのですか。
空よ、私は、私に成れていたのでしょうか。
一体誰が決めた『私』なのかは、こうなってしまっては到底知り得ませんが、そうであったと、ただ誰かに頷いて欲しかったが為に、生きていたような気さえするのです。
あゝ、空よ。
罅割れた硝子鉢が、ずうっと、青に満たされていく。春の陽気に満ちた縁側、眼を閉じて、猫の寝息に耳を立てるような、心地よさを感じるのです。

空よ。
最期に抱き締めてくれたのが、あなたで良かった。

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