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なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか。2冊目②「太閤検地」と「朝鮮出兵」の結びつき

力尽きた前稿の続き。

 本稿は、「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」シリーズの2冊目『太閤検地』①の続きである。

前回の記事はこちら⇩

この記事を初めて目にする人のために、本稿で取り上げる本の書誌。

中野等,2019,『太閤検地――秀吉が目指した国のかたち』中央公論新社(中公新書).

 前稿では、太閤検地と朝鮮出兵の結びつきが、以下の2点であると提示した。

①軍役動員と領地石高

②朝鮮半島の兵站化と日本の占領政策

それでは、具体的なまとめに入っていこう。

① 軍役動員と領地石高

 1592(天正20年)年正月。大陸侵攻を命じられた諸大名が前線基地である肥前国名護屋へ向かう。この諸大名の出陣については、あらかじめ動員すべき人数がはっきりと示されていた。この諸大名に課された軍役動員の策定元となっているのが、検地によって把握された諸大名の石高である。

 3月13日付の「陣立書」には、文禄の役における軍団構成が記されている。筆者がまとめた表をそのまま引用しよう。

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 この表は一番~九番に振り分けられた各大名の陣立であり、それぞれに割り当てられた軍役動員数が記されている。ここに書いている軍役動員数は、その大名が「うちはこれだけの兵士を出せますよ」という自主的に動員した数ではない。それぞれのもつ領地の石高に応じて割り当てられた数である。

 このうち、六番の小早川隆景(筑前)に注目してほしい。筑前小早川に割り当てられた軍役動員数は、10000人である。筑前小早川家は、知行高30万7300石のうち、20万石が軍役高として割り当てられている。20万石で1万人を動員するわけだから、ここでは石高100国につき、およそ5人を軍役として動員せねばならなかったのである。

 以上のことから、筆者は太閤検地の結果として策定される石高は、こうした軍役の算出基準としての機能を有していた、と指摘している(中野 2019: 173)。ここに、太閤検地と軍役との結びつきの1つ目が確認されるのである。

② 朝鮮半島の兵站化と日本の占領政策

 文禄の役で日本軍が朝鮮王朝の都漢城(現在のソウル)を陥落させたことによって、朝鮮半島は「征明」構想の経路となるだけではなく、前線将兵の兵站(へいたん)を支えるという重要な役割を課されることになる。兵站とは、戦場で後方に位置して、前線の部隊のために、軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などの役割のことである。したがって、秀吉の占領政策は、朝鮮半島を血なまぐさい戦場から、朝鮮社会の秩序を回復し、安定させることを基本とすることに変化した。

 1592(天正20)年の5月上旬に漢城に入った日本の諸将は朝鮮半島の安定化のために、宇喜多秀家を漢城に残しつつ、朝鮮八道を諸将で分割し、各道を単位とした占領政策を進める。

朝鮮八道(本書p.180)

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諸将による朝鮮八道の分担(本書p.182)

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 諸将は「禁制」を発止,日本の将兵が朝鮮の人々の家財を奪うなどの狼藉を禁じ,逃散した農民を本来の居所に帰るように促した。そして,人質を取りながら,朝鮮各地のさまざまな産物や域内の人口を把握し始める。この一連の成果は「朝鮮国租税牒」として知られている。

鍋島家の朝鮮国租税牒(本書p.184)

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 これは肥前(佐賀)国の鍋島家が支配した地域の生産物を記したものである。用語について説明すると,造米は水田で作られた玄米,田米は陸田米で,畑を利用して作られた米のことである。太は大豆を指し,祖はまだ殻の付いた籾米,稷はキビとよみ,雑穀である。小豆はそのまま小豆を指す。

 これをみると,朝鮮の徳源郡で生産される農産物が「石」という単位で把握され,表記されていることに気づくと思う。鍋島家では,このようにして占領地域で作られる農産物を「石」で把握し,管理しようとしていたことが分かる。

 したがって,朝鮮半島各道は日本が明国へ侵攻するための兵站基地としての機能を期待され,その占領政策として,その土地の人口と産物を詳細に把握することが行われたのである。こうした朝鮮半島の兵站化において,社会的な「富」を「石高」として把握し,それを知行として再分配していくという太閤検地の原理は,朝鮮半島まで拡大したのであった。ここに、太閤検地と軍役との結びつきの2つ目が確認されるのである。

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