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明治日本と西洋文明の出会い #2岩倉使節団出航

1.出航のとき

1871(明治4)年の暮れ。12月23日に国家的プロジェクトである日本人の大使節団が、横浜港から出港した。いわゆる、岩倉使節団である。

遣欧米特命全権大使に岩倉具視、副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳と、薩長藩閥を中心とする明治維新の中心的なメンバーである。これに使節とされた政治家46名、随従者18名、留学生43名を加え、総勢107名にのぼった。

一行はおよそ一年半の間に、世界12か国をめぐり、1873年9月13日に帰国することになる。

2.平均年齢32歳の政治家たち

岩倉使節団のメンバーの平均年齢は32歳という驚きの若さだったことはあまり知られていない。

最年長の岩倉が47歳。大久保は42歳、伊藤は31歳、山口は33歳、最年少の長野文炳(佐々木理事官随行、権小判事、のち大審院判事)はなんと18歳だった(田中 2003: 4)。

新しい世界に対応する若さが際立っている。変革期の世代交代こそが、岩倉使節団の特色だったわけだ。

コロナ対応に迫られた菅政権発足時の平均年齢をみてみよう。菅内閣の最年少閣僚は39歳の小泉進次郎環境相。50代が9人、60代が8人、70代が3人を占め、最高齢は79歳の麻生氏だった。平均年齢は60.4歳という(日経 2020年9月16日付)。

単純な比較はできずとも、その若さがより際立つと思う。

平均年齢

3.使節団の目的

使節団の目的は次の3つである。

1 江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を改正する交渉を行うこと
2 新国家建設のための知識・知見を世界一周の中で集めること
3 条約を結んでいる各国と友好親善の関係を深めること

4.久米邦武編集の『実記』について

使節団の旅の軌跡は、久米邦武(1839ー1931)という人物によって記録されている。

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久米邦武は肥前藩出身で、藩主の鍋島直正の推挙で使節団に加わり、『米欧回覧実記』という膨大な旅行記をまとめた。『実記』は太政官小書記官という立場だった久米が編集した使節団の公的な報告書である。岩倉は久米をいつも遂行させ、見聞したこと、交際したことを逐一記録させた。久米は帰国後、10回以上にわたる書き直しを行い、完成させている。

本シリーズは、『実記』とともに進んでいくことになる。改めて、この久米という人物の偉業におどろき、感謝するばかりである。

5.再び、岩倉使節団出航のとき

12日 晴れ 夜になって雨。

久米によれば夜明けの霜が強かったが、美しい太陽の光が澄み渡っていたという。一行は朝の8時に集合、10時に波止場にむかい、蒸気飛脚船「アメリカ号」に乗船した。このとき、砲台から19発の礼砲が轟き、次いで15発がアメリカ公使チャールズ・デロングの帰国祝して発砲された。

乗船の準備を終え、12時になると一発の号砲が鳴り、いざ、錨をあげ出航した。港の軍艦上の水兵たちが甲板に整列、脱帽して敬礼した。また見送りのための船たちが港を出てもなお数里ほど後を追ってきたという。

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6.追記1 われ先に船に乗る人々

追記の記事になります。

追記2 観光ブームと観光の起源


参考文献

田中彰,2003,『明治日本と西洋文明』岩波書店.

久米邦武編著,水澤周訳・注,2008,『現代語訳 特命全権大使米欧回覧実記 1 アメリカ編』慶応義塾大学出版会.

画像引用

・久米邦武肖像

久米美術館HP

・「岩倉大使欧米派遣」山口蓬春作(聖徳記念絵画館所蔵)

明治神宮外苑HP


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