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阿呆よ、帰ってこい

図書館から一歩外に出ると、途端に生暖かい空気が体を包み込んできた。気持ち悪い。十人のおじさんから一遍に熱い息を吹きかけられたような感覚だった。しかも、路上では発情した雄猫がしきりに雌猫に交尾を迫る始末だ。目に映る景色まで暑苦しかった。
早く涼しい場所へ。僕は足早に最寄りのコンビニへ向かった。


 コンビニに入るや否や、体にまとわりついていた嫌な熱気はすぐに剥がれ落ちた。僕はしばらく商品を選ぶふりをして店内を徘徊し、すっかり涼んでしまうとクーリッシュを買って店を出た。
 店を出ると、げんなりした。相変わらず蒸し暑かった。僕はすかさず購入したクーリッシュをもみほぐし、柔らかくなったのを確認して吸い付いた。大学の課題で疲弊した脳にバニラの甘味が染み渡る気がした。そして蒸し暑さもクーリッシュのおかげでいくらか和らいだように感じた。しばらく僕は店先でクーリッシュをちゅうちゅう吸っていた。すると図書館の方から騒がしい女の子の笑い声が聞こえてきて、見るとセーラー服の集団が自転車に乗って迫ってくるのが見えた。僕は、はっと気づいて、咄嗟に彼女たちから目をそらした。その時、僕は髭を剃り忘れたうえ、だるだるのTシャツにサンダルという清潔感のない恰好をしていた。もし、じろじろ見ていると思われたら、今の自分の風体を笑いものにされるかもしれない。「何見てんだよおっさん」「気持ちわりんだよ、この髭!」みたいな感じで。
 しかし、幸い彼女たちは僕のことなど目もくれず、目の前を行き過ぎていった。考えてみれば当たり前だ。コンビニの前でクーリッシュを吸い続ける腐れ大学生に構っている暇など彼女たちにはないのだ。彼女たちには明日の授業のこととか、部活のこととか、気になる人のこととか、考えることは他にも山ほどある。
僕は彼女たちが行き過ぎたのを確認して胸を撫でおろした。そして遠く小さくなっていく彼女たちの後ろ姿を見遣った。皆一様に半そでのセーラー服を着て、そこから小麦色の肌や、逆に白磁のようにすべらかな肌をのぞかせていた。時折、風にはためいたスカートの中から彼女たちの太ももが露になった。
 僕は彼女たちの背中を見送りながら、なんだか懐かしさがこみ上げてくるのを感じていた。


 馬鹿な話、一部の男子高校生にとって衣替えは、夏祭りやクリスマスに匹敵する一大イベントだった。彼らは突然薄着になった女の子を前にいつだってどぎまぎし、半そでのセーラー服からのぞく柔らかそうな二の腕や、短くなったスカートから時折垣間見られる綺麗な太ももに鼻の下を伸ばしていた。むろん、当時彼女もおらず童貞街道をまっすぐに突き進んでいた僕もまた、鼻の下を顎まで伸ばして、麗しき娘たちを眺めていた。一言で言うと阿呆である。


 当時の自分は本当に妄想力だけで月にも飛んでいけそうな勢いだった。地面を思いきり殴れば地震すらも止められるかもしれない、そんな根拠のない自信を持っていた。
 しかし、その癖、他人と口喧嘩をしても勝てない、腕っぷしでも勝てない、女の子にも自分から話しかけられない、貧弱者でかつ臆病者であった。傷つきやすい少年はいつだって現実へ飛び出していくことなく、妄想の四畳半で泰平の歌を歌っていた。やはり阿呆である。


そして22歳の自分。変な自意識は健在で、今でも臆病者のままだ。でも、あの頃のように女の子を目にして、どぎまぎすることはなかった。どうしてだろう。
たぶんいろいろ経験してきたからだろう。少しは女のことも話せるようになったし、ちゃんと恋もし、失恋もした。そのせいか、もう慣れた。
額面通り受け取れば、喜ばしいことだ。妄想の四畳半で泰平の歌を歌っていた少年が、今や現実の荒波の中に飛び込んでいっているのだから。
だが、どうしても喜べない。むしろ、寂しさばかりが胸を刺す。
もう、あの頃の感じやすく、傷つきやすかった少年はどこにもいない。
もしかしたら、まだどこかにいるかも知れないが、今は深く眠ってしまっている。
色んなことに慣れてしまった今だから分かる。あの頃の、妄想だけで世界を一周していた感覚、根拠のない自信に背中を押され、ない道を前進していたあの感覚。それはとても尊いものだった。どうしたら、あの頃の阿呆な少年に会えるのだろうか。

会いたいよ。もう一度、僕をはばたかせてくれよ。
なあ、ほんとにどこにいるんだよお前。
帰って来いよ、馬鹿野郎。
いつでも待ってるからさ。

現実の中で生きていくためには
やっぱり阿呆の助けがいる。

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