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またたび日記3「母」

 昼下がり、薄暗い部屋の中で午睡から目を覚ますと、二匹の猫が僕の傍らで丸くなり眠っていることに気づいた。しっかりと重なり合い、まるで一つの玉のようになって眠る猫たちを見ていると、自然に顔がほころぶのが分かった。僕は彼らにそっと手を伸ばした。そして、そのやわらかい毛に覆われた背中を優しく撫でてやった。ごろごろと、猫たちの喉が鳴る。気持ち良さそうだった。しばらく撫でていると、一匹の猫――レイがゆっくりと目を覚ました。重い瞼を半ば持ち上げながら、前足を探るように動かしていた。すると突然、レイはまだ傍らで眠るもう一匹の猫――リンを仰向けにすると、その胸に向かって飛び込んでいった。そして、そのままリンの小さな乳首を吸い始めた。ぴちゃぴちゃと音を立てながら乳首を吸い込むレイ。それを見て、胸が締め付けられるように痛んだ。


 リンとレイの母猫、ミュウが死んだのは三か月前のことだ。
 ある朝祖母が郵便受けに新聞を取りに行くと、ミュウは草むらの中で固くなっていた。その首には切り裂かれたような傷があったそうだ。バイクにでも撥ねられたのか、近所の犬に食い殺されたのか、意地悪な人間に切り殺されたのか、真相は今となっては分からない。
 ミュウの死の悲しみは瞬く間に、家族の間に伝播した。妹、母は涙に暮れ、祖母は一時魂が抜けたように放心していた。自分はほとんどミュウと会ったことはなかったが、家族の嘆きようを見て、いかにミュウの存在が大きいものだったのか知った。家族を繋ぎとめてくれたのもミュウだったし、認知症の祖母を支えてくれたのもミュウだった。もし神様がいるとすればミュウは、神様が遣わしてくれた四足歩行の天使だった。だからいくら感謝してもしきれない。
 
ミュウの死から一か月が経過し、ようやく家族の悲しみはミュウへの穏やかな追憶へ変わった。放心状態だった祖母も遺された子猫たち――もち、だいふく、リン、レイの世話をしているうちに活力を取り戻したようだった。だが、やはり祖母の病気のことや、祖母が家を空けている時間の長さを考えるとだんだん多頭飼いも難しいことが分かってきた。そこで、四匹の猫のうち雄猫のリン、レイが我が家へ引き取られることになった。


 その後家に来てからの詳しい経過は知らないが、僕が帰省した時にはリンとレイはすっかり我が家になじんでいた。妹の膝の上で眠り、母親が差し出すねこじゃらしに飛びついていた。猫たちからしたら新参者の僕のこともやがて受け入れてくれて、今では彼らからすり寄ってくれるようになった。色んなものをひっかきまわるリンや、ねこじゃらし目掛けて1メートル以上もジャンプするレイを見ていると、ほんとうに楽しそうで、こちらの胸も弾んでくる。すくすくと育っていく彼らを見ていると、引き取って本当に良かったと思えた。


 毎日が春の野を駆け回るような穏やかで健やかな日々だった。だからこそ、無意識に母の乳房を求めるレイを見た時、雪の降る夜道に置き去りにされたような寂しさを感じた。いや、現に彼らは置き去りにされたのだ。ミュウは彼らを置いて先に行ってしまった。ミュウは野良猫だった。本当は子猫たちは皆、彼女を通して世界を知り、生きていく術を学ぶはずだった。そして愛を与えられるはずだった。僕は一心不乱に兄弟の乳房を吸うレイを見て、彼の胸に空いた虚をみるような気がした。彼は届かない場所に向かって、必死に手を伸ばしていた。

 レイが顔をリンの乳房に押し当てる。リンは、時々それを手で制するが、しだいに諦めたのかされるがままになっている。レイは一通り、乳房を吸い終えると再び眠りに落ちた。レイが舐めた後のリンの胸の毛は唾液で、べたついていた。
 僕はすやすやと眠る二匹の上に優しく覆いかぶさった。触れている僕の肌から、彼らの体に暖かいものが流れ込んでいくのを感じた。
 そしていつか、リンの胸が唾液で濡れなくなるその日まで、この暖かいものを彼らに与え続けようと思った。
「ミュウ、君があたえきれなかったものを、僕があたえてもいいかな?」
 ミュウ、と遠くで猫が鳴いたような気がした。

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