小説「神さまの話」リルケ 感想


「たしかに、田のなかで、古ぼけた上衣を着せられた、案山子がひとつ、立っているのを、見たような気がするのです。その一方の袖が──どうも、左の袖かと、 思うのですが、杭にひっかかって、ちっとも風になびいてはいませんでした。そこで、自分としましては、各自がなにかを果さねばならぬという点で、人類社会をもまた、一種の協会のように、 思っているのですが、この人類社会の共同利益にたいして、ささやかなりとも、分相応の貢献をするために、あの左の袖をば、その本来の意義に、すなわち、風になびくように、戻してやらねばならないという、義務をば、いま、感じているわけです……」

141ページ

著者 ライナー・マリア・リルケ

 大人のための絵のない絵本です。神さまはあらゆるものや事象にひそんでいることを気づかせてくれます。大人が神さまをそこに見つけるということは、失われてしまった幼かった頃の感性をほんの少しでも思い出させてくれる一瞬でもあるのです。そうした瞬間には、ふしぎと懐かしさや憧憬の念を抱かされるものです。この場合の神さまとは、もちろん宗教で言うところの神さまとは違って、自身が子どもであった頃の、あの言葉では説明しきれない何もかもが新鮮で特別であると思わせる感覚を刺激する印象を言います。
 いったい、人間が大人になっていくことはそうした子どもの感性を失っていくことだとするなら、なんと悲しく残酷なことでしょうか。「マルテの手記」の机の下の「手」の話も、大人となってしまったいまでは完全に理解することは難しく、その「手」を見つけることもできないのでしょう。しかし、人間はいつまでも子どもでいることを許されません。生活のための人生が大人に重くのしかかるためです。子どもの頃のあのすべてが光に包まれていた世界は、いまではただ色あせた追憶として残るだけなのです。

『では、あなたのお考えですと、私どもは、それぞれの幼年時代のために、いつまでも苦しまなければならない、また、それが、当然のことだと言うのでしょうか』
『そうです。そう、思っているのです。 僕たちの背後につきまとい、僕たちが、いまだにこうして、かすかな定かならぬ関係を、保ちつづけています、この重苦しい闇のために、苦しまねばならないのです。そこには、ひとつの時代が、あるわけです。僕たちは、僕たちのいわば初穂を、そのなかへ、納めておきました。あらゆる端緒、あらゆる信頼、いつかは生れるはずのものいっさいへの萌芽を、納めておいたのです。ところが、ふと、気づいてみると、それが、一切合財、どこかの海の藻屑と化してしまっています。いつ、そんなことになったかも、しかとはわかりません。僕たちの、全然、気づかなかったことでした。ちょうど、有り金をそっくりかき集めて、羽を一本、買い求め、その羽を帽子にさして、歩くようなものかもしれません。とたんに、風でも来れば、たちまち、その羽をさらっていきます。むろん、家に帰ってみると、羽は、跡形もありません。そうなると、いつのまに飛び去ってしまったのかしらと、いくら思案してみたって、後の祭にすぎません』
『ゲオルク、あなたは、そんなことを、考えてらっしゃるの』
『いや、もう考えてはいません。やめにしました。いまの僕は、十歳になってからあとの、ある時期に、そうです、僕がお祈りするのをやめてしまったころに、出発点を置いています。それ以前は、もう、僕のものではありません』

164ページ

 それでも、大人たちにもかつて無垢な心と純粋な精神が宿っていたことをリルケは思い出させてくれます。それは思い出そうとするだけで十分なのです。それらをいまさら取り戻そうとすることは決して叶わないのだから。

『いいえ、私は、ただ、神がいられたということを、かつてはたしかにいられたということを、身に感じたのです……それ以上、感じる必要が、どこにございましょう。それだけでも、もう過分ですもの』

170ページ

 子どもは大人にあこがれて、大人は子どもにあこがれる。この永遠のすれ違いが解消される一点におられるのが、リルケのいう神さまであるのだと思います。

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