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「セロリが好きな人もいる」から抜け出せない。思想の魅力

「何の本をよく読んでいるんですか?」
と聞かれて
「思想が好きで、よく読んでるよ」
なんて答えた会話を最近したので、そのことについて書きます。

 私は思想関係の本をよく読みます。というのも、思想が興味深いから。どのように興味深いのかというと、無限ループのような恐怖を感じるのです。「どうあがいても出られない」とでもいうような恐怖が、私の興味を思想に向かわせます。

その車は左折したのか直進するのか。構造主義

 例えば私は以前、警察官をしていたことがあり、仕事でケンカの仲裁をよくやっていました。警察官がケンカに呼ばれるのは、そのケンカが当事者たち自身で収集がつかなくなったから。故に警察官が仲裁するケンカは大抵、当事者双方が感情的になって、自分たちで後戻りができなくなっている状態。怒れる彼らは、自分の側の正当性を決して譲ろうとしません。当事者はどうしても「相手が悪く、自分が正しい」とい力関係で決着を図りたいのです。

 ある時、いわゆる「交通トラブル」と呼ばれるタイプのケンカに行きました。車どうしがぶつかりそうになり、そこから片一方が相手にケンカをふっかけた、という事案です。110番通報を受けて現場に行って、私ははじめにケンカを売った側の人から話を聞き、その内容は概ねこんな感じでした。

「自分は相手の車の前を走っていた。十字路交差点を直進したとき、相手が右車線から追い抜きをかけてきた。交差点を過ぎた当たりで、相手が自分の車の前に入ろうとしたので、自分の車の右前部と相手の車の左後部がぶつかりそうになった。だから相手を止めて文句を言ってやった。」

 このケンカを売った側の人は案の定、怒り心頭で、自分の主張をガンとして譲りません。この人も40歳くらいのいい大人でしたので、落ち着いていれば「お互いに言い分があるのだろう」くらいのことは考えたのでしょう。が、このときは少しも譲る気配を見せません。「自分は何も悪くない。危険な運転をしてケンカを招いた原因はすべて相手にある」の一点張りでした。

 確かにこの話だけ聞くと「相手だけが悪い」ようにも思えるのですが、ケンカの仲裁というのは、双方の話を聞くまで判断がつきません。というのも、相手には相手の事情があるからです。「相手から事情を聞くと、片一方からだけ話を聞いていたのではわからなかった事実が出てきた」というのはよくある話。案の定、ケンカを売られた側から話を聞くと、次のようなことを言っていました。

「十字路交差点手前で、前を走っていた車が減速したのです。左折するだろうと思って一旦、右車線に出て、交差点を通り過ぎた辺りで左車線に戻ろうとしました。そうしたら、さっき左折しそうだった車が直進してきていて。だから、左車線に戻ろうとして私の車と、直進してきた相手の車がぶつかりそうになったのです。」

 同じ状況について説明しても、ケンカを売られた側から見れば、また違った世界が広がっています。いくら片一方が正義を主張したからといって、相手にだって相手の言い分があるもの。それはどちらが正しくてどちらが間違っているものでもありません。同じように尊重されるべき二つの価値観がぶつかることもあるのです。

 「ケンカしている双方に、それぞれの言い分がある」ことに、多くの人は議論の余地が無いでしょう。一方的なものの見方は自己中であり、自己中は悪。どちらかが正しくてどちらかが間違っている場合なんて滅多になく、双方の言い分が同程度に正しい。争いとはそういうもの。「戦争をしているロシアとウクライナだって、お互いに譲れない主義主張があるはず。」という程度の認識は、誰もが持っていると思います。

 このように、私たちは世界について、ただ一つの真実があるなどとは思っていません。今どき、西洋社会が正しくて他の地域が間違っているなどと考えている人もいない。両国が領有権を主張する海上の島だって、お互いに考えがあるはず。J国にはJ国の歴史解釈があり、K国にもK国の歴史観がある。社会の数だけ、それどころか人の数だけ価値観があり、それらの価値観は等権利である、と私たちは当たり前のように考えます。

 けれど、この「価値観は人それぞれ」という考えは流行りです。私たちは小さい頃から「価値観は人それぞれ」という考えが当たり前の社会にいるので違和感を感じませんが、この考えは普遍ではありません。20世紀になって世の中に広まった考えなのです。

世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を、私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、一九六〇年代のことです。

内田樹「寝ながら学べる構造主義」

君はどう感じるのか。人間至上主義

 それから、こんなこともありました。警察官という職業は、途中で職を辞する人がたくさんいます。人気のある職業ではあるのですが、心を砕かれる職業でもある。標的になりやすいのです。ただでさえ警察官は市民・県民から嫌われます。というのも、警察官は違反かどうかや犯罪かどうかのジャッジをするわけですから。もしも「あなたは違反者です」とか「あなたの行為は犯罪ですよ」とジャッジされれば、された方にもプライドがあるので文句も言いたくなるでしょう。しかも、警察官には弱みがあります。公務員ゆえに品行方正を求められるため、下手に手出しできません。それに、警察官という力のある職業を攻撃することで、自分の力を誇示したいと思っている人もいます。警察官がむやみに手出し口出しできないことを良いことに、鬼の首を取ろうとする輩です。このように、警察官は仕事のうえで、頻繁に標的にされます。そしてその結果、口撃や揶揄に耐えられずに組織を去る人がたくさんいるのです。

 以前、私の部下が、仕事を辞めていきました。その部下は20歳代で、警察官としてのキャリアはこれからという若者。私のフォローも足りなかったのでしょう。仕事をする中で市民県民から文句を言われ、それに耐えられなかったと言っていました。

 その辞めていった部下に、課長が言った言葉があります。部下は「辞めたい」と課長に申し出て、課長と面接をして正式に辞める意思表示をし、組織を去って行きました。組織を去る事に皆んな慣れているとは言え、いざ「辞めたい」と言われると言われた方は寂しいもの。辞められると、自分たちの職業を否定されたようで、或いは「魅力がない」と言われたように感じるので、できればやめてほしくありません。かといって、引き止められるだけの論理的な材料もないし、そこまでの責任ももてない。そこで課長は面接の席で、辞める旨を申し出た部下にこう言ったのです。

「あなたが一番、幸せと思う道を選びなさい」

 どうでしょう、この課長の言葉を聞いて「妥当だ」とか「その通りだな」思った人が大半なのではないでしょうか。私たちは目の前に選択肢があるとき、心の声に耳を傾けることで正しい選択ができると考えます。事が重大であればあるほど論理的思考つまり打算をやめ、「どうするのが心地良いか」を考えます。「後になって悔いが残らない」ように「ありのままの自分」を探します。どうするのが良いかは自分の心がよく知っており、その心に従うのが正解だと考えるのです。課長が言った「あなたが一番、幸せと思う道を選びなさい」というセリフは、自然で違和感のないものに聞こえます。

 が、この「自分の声に耳を傾けよう」とする考えは人間至上主義と呼ばれるもので。これも流行りです。

人間至上主義によれば、人間は内なる経験から、自分の人生の意味だけでなく森羅万象の意味も引き出さなくてはならないという。意味のない世界のために意味を生み出せーこれこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」

私たちは幼い頃から、人間至上主義のスローガンをこれでもかとばかりに浴びせかけられる。そうしたスローガンは、「自分に耳を傾けよ、自分に忠実であれ、自分を信頼せよ、自分の心に従え、心地良いことをせよ」と勧める。

ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」

現代の女性が、自分がしている浮気の意味を理解したければ、司祭や古い書物の判断を鵜呑みにする可能性ははるかに低く、むしろ自分の気持ちを注意深く調べるだろう。もし気持ちがはっきりしなかったら、新しい友人に電話して会い、コーヒーを飲みながら、胸の内を洗いざらい打ち明ける。それでもあやふやだったら、かかりつけのセラピストを訪ね、それについてすべて話す。(中略)セラピストはまず間違いなく「それで、その件についてあなたはどう感じているのですか?」と気遣いに満ちた声で尋ねることだろう。

ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス」

仕事と海外旅行の経験。ロマン主義

「この職業って、経験が大事じゃないですか」
 これは、警察官だった時の同僚の口癖です。

 警察官は、多種多様な事案に精通する必要があります。彼らが扱う仕事も、一様ではありません。警察では飛び込んでくる雑多な事案を部署ごとに分類しており、刑事課関係、交通課関係、生活安全課関係、警備課関係、地域課関係などに分けています。刑法犯罪を扱う刑事課の仕事だけを扱っていては、交通事故などの交通課関係の仕事を処理できません。また、地域住民との主な窓口になる地域課関係の仕事だけをやっていても、家庭内トラブルや少年法を扱う生活安全課関係の仕事に対応できません。警察官は、仕事の幅を求められるのです。

 けれど長年、警察官として働いていると、得意不得意の隔たりができてきます。「道路交通法は得意だけど他はちょっと……」とか「自分は刑事しかわからないんだよね」みたいな。そうすると、自分が不得意な事案が発生したときに、現場に行くのに二の足を踏むようになるのです。「やべ、できれば行きたくない。他の人が行ってくれないかな」なんて思うようになります。

 同僚が言った「この職業って、経験が大事じゃないですか」というのは、この二の足を踏む状況を戒めるための言葉です。警察官たるもの、すべての事案に対応できなければならない、というのです。

 この「経験が大事」というのは、なにも警察官の仕事だけに言えるものではありません。人生、何事も経験が大事でしょう。だって、物事の一部しか経験していなかったら、それだけ視野が狭いわけですか。全部で5つあるものの内で2つしか知らなかったら、3つを知らない分だけ、5つすべてを知っている人よりも思考の幅が狭いことになります。生まれてから日本でしか暮らしなことがない人よりも、海外在住経験がある人の方が視野が広いでしょうし、海外旅行を一カ国しか知らないよりも10カ国と知っていた方が、見えている幅が広いことになります。経験が広い方が人生において有利なのは、説明抜きでも皆んな納得するのではないでしょうか。

 しかし、この考えも流行りです。私たちが「経験が大事」と考えるのは、ロマン主義の影響によります。

ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。自らの束縛を解いて多種多様な感情を味わい、さまざまな人間関係を試し、慣れ親しんだものとは異なるものを食べ、違う様式の音楽を鑑賞できなければならないのだ。これらすべてを一挙に行うには、決まりきった日常生活から脱出して、お馴染みの状況を後にし、遠方の土地に旅するのが一番で、そうした土地では、他の人々の文化や匂い、味、規範を「経験」することができる。「新しい経験によって目を開かれ、人生が変わった」というロマン主義の神話を、私たちは何度となく耳にする。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」

小さな階段と広がる風呂敷。思想の抜け出せない感

 そして、思想の怖さはここにあります。流行りとわかっていても否定できないのです。

 思想は普遍ではありません。それぞれの時代や文化特有の隔たりです。ミカンが美味しい地域とりんごが美味しい地域が分かれているようなもの。どこの地域でも同じように果物が収穫ができるわけではないように、思想も時間的空間的に隔たりのあるものなのです。ある思想がもてはやされている地域がある一方、その思想に馴染みのない地域もあるでしょう。今の時代に固有の考えであって、過去の他の時代だったら一笑に付される考えもあるでしょう。思想はいつの時代、どの地域でも通用する真理ではない。

 けれど、構造主義も、人間至上主義も、ロマン主義も、私たちには至極まともに聞こえます。例としてあげた、これら3つの思想に説得力をもって反論することは、なかなかできません。

 「価値観は人それぞれ」という構造主義には反論できません。だって、どう考えても人それぞれの価値観が同じだなんて思えないのですから。私とあなたは、これまで生きてきた過程が違います。違う時代に生まれ、別々の場所で育ち、各々の文化で成長してきました。違った価値観をもって当然でしょう。育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めません。夏がだめだったり、セロリが好きだったりするのです。

 「自分の声に耳を傾けよう」という人間至上主義にも反論できません。辞める部下にとって幸せな選択を、どうして他人である私ができるのでしょうか。相手には相手の見ている世界があります。それまでの人生があり、これからの人生もあります。それらを知っているのは当の本人だけで、他人である私がそれら人生を知るはずもありません。

 「経験が大事」というロマン主義への反論も、簡単ではありません。経験は重要です。私たちは、新しいものを経験したときに幸福を感じます。発見という幸せです。初めて食べたメロンが美味しかったり、初めて訪れたエジプトが刺激的だったり。「こんな世界があったんだ」と、それまで知らなかった世界を見つけ、それによって認識の幅が広がります。認識はどう考えても狭いより広い方がいい。打者しか知らないバリー・ボンズに「打者は良いよ」と言われるよりも、投手と打者の両方を知っている二刀流の大谷選手に「打者は良い」と言われる方が説得力があるのと同じです。

 これが思想の恐怖なのです。否定できるとわかっているのに否定できない。文化や社会特有の隔たりだとわかっているのに普遍に思える。先が見えそうなのに、どう考えても見えない。一段だけ高いところへ登ろうとしているのに、それすら登れない小さな階段しか持ち合わせていないような、自分の思考の無力感。行く手を阻んで、目の前に際限なく風呂敷を広げられているような、思想の存在感。外の世界は「ある」とわかっているのに、自分の世界から出られません。でもってその外の世界は「認識」という、いくらでも薄くできる膜のすぐ向こう側にあるはずなのに、この薄い膜が破れない。或いは、破り方がわからない。「破り方はこうかな」とか「こっちの方向で考えれば破れるかな」と思って考え進んでも、それでも、それまでの認識から抜け出せない。「抜け出せたかな?」と思ってみても、そこに広がっているのはまた同じような認識。「それ以外に正しい考え方はあるよ」とわかっていても、結局は構造主義も、人間至上主義も、ロマン主義も抜け出すことができず、その反論方法に触れることすらかなわない。思想の無限ループであり、恐怖であり、興味深さでもあるのです。




参考

 舌を噛みそうな名前の著者の本。ノヴァル・ユア・ハラリ? ハラル・ノア・ユヴァリ? 
 何年か前に「面白くて世界中で読まれている」と聞き、文庫化されて読み始めました。そうしたら、私も例に漏れず面白い。歴史書ですが、哲学的思想の著述が特に興味深い。例えばキリスト教に関する部分。キリスト教は多神教の影響を受けていると著者は述べます。私も以前から、キリスト教の崇拝対象がいくつかあることが引っかかっていました。「一神教」と釘打ってはいるけれど、神もキリストも聖母マリアも崇拝対象。それから「聖◯◯◯◯トニウス」のような崇拝対象も何人かいる。「これって一神教っていえるのか?」と思っていました。それに対する回答が以下の文章なのでしょう。

神学の理論と歴史の現実との間には、つねに隙間が存在してきた。ほとんどの人が、一神教の考え方を完全に消化しきれずに来た。(中略)一神教は神々を表玄関から派手なファンファーレとともに追い出したが、脇の窓から再び中へ招き入れた。たとえばキリスト教は、聖人たちが居並ぶ独自の万神殿を築き上げた。こうした聖人たちのカルトは、多神教の神々のカルトと大差なかった。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」


 同じく、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の本。
 結局は自由意志の問題に行き着いたことに安心しました。というのも、私の読書歴が肯定された気分で。哲学関係の本を読んでいるとよく自由意志の問題を見ます。「人間はどの程度、自由に物事を考えているのか」とか「人間には、実は自由意志なんてないのでは?」とか。そんな問いが前から好きだったのですが、本書でも自由意志の問題が大きな扱われ方をされてしました。話題となった著者の本で、私と同じ興味対象が取り上げられていて、「私も間違っていなかったかな」と思えました。

ところが二〇世紀に科学者がサピエンスのブラックボックスを開けると、魂も自由意志も「自己」も見つからず、遺伝子とホルモンとニューロンがあるばかりで、それらはその他の現実の現象を支配するのと同じ物理と化学の法則に従っていた。

私たちの科学的理解が及ぶかぎりでは、決定論とランダム性がケーキを山分けしてしまい、「自由」の取り分は一かけすら残っていないようだ。じつは、「自由」という神性な単語は、まさに「魂」と同じく、具体的な意味などはまったく含まない空虚な言葉だったのだ。自由意志は私たち人間が創作したさまざまな想像上の物語の中にだけ存在している。


 良書です。比較的平坦な言葉遣いで、思想やイデオロギーについて説明されているので。構造主義について説明された以下の文章は、わかりやすいし正確だろうし興味をそそられるし、一品です。

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視野に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。


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