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アルヴァー・アールト展覧会カタログ@セゾン美術館(1998−1999)

「アルヴァー・アールト1898-1976:20世紀モダニズムの人間主義」展覧会カタログです。

今はなきセゾン美術館にて、アールト生誕100年目にあたる1998年の12月から、翌1999年2月にかけて開催されました。

そう、かつて池袋の西武百貨店には「セゾン美術館がありました。

セゾン美術館は、当時にしては珍しく建築展も開かれていましたが、1999年をもって惜しまれつつ閉館しました。アールト展はおそらく最後の展覧会(のひとつ)であったと思われます。
https://www.nact.jp/exhibitions1945-2005/exhibitions.php?museum=セゾン美術館&op=AND

ところで、なぜいまアールト展のカタログ?

現在、世田谷美術館ではアアルト展が開催されているのですが。6月20日の会期末までの予約枠は、すでに、すべて埋まっていました。

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00202

遅かった。。ぼんやりしすぎてました。

それで、ハンカチをキ〜〜ッとかみかみ、22年前のカタログをひっぱりだして、くやしまぎれに埃をはらってみた次第です。

カタログ本をひらくと、そんな中年女子のよどんだ心を洗い浄めてくれる、光り輝く北欧の世界が広がっていました…。


*Alvar Aaltoの日本語表記が、世田谷美術館(21世紀)は「アルヴァ・アアルト」ですが、セゾン美術館(20世紀)では「アルヴァー・アールト」ですね。

1998年のセゾン美術館版の「アールト」展について、主催団体のひとつは「アルヴァー・アールト展実行委員会」です。

その委員長は、芦原義信先生がつとめておられました。委員には槇文彦先生、石井幹子先生らがお名前をつらねていらっしゃり、なんとも豪華です。。

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芦原先生、カタログの序文によせて、ル・コルビュジエとアールトを比較し、その建築的な質の違いを指摘しています:

「私はかつて、コルビュジエとアルヴァー・アールトの作品を比較しながら、その発想の差異について論じたことがある。それは即ち発想の「全体性」と「部分性」の問題である。コルビュジエの作品はどちらかと言うと、先に全体の形態が決められ、それから急進的に部分部分へ向かうのに対し、アールトの作品は、部分部分の整合性から始まって全体に完結するというものであった。」
「アールトの作品は、その外観や輪郭線は凹凸に恵まれ、自然の樹木のような感じがするが、近寄ってそのディテールを見ると、実に緻密にデザインされていることがわかる。それは建築の設計にあたって、全体から発想するのか、発送するのかという問題がある。もちろん、全体だけでも部分だけでも建築は成立しないが、その力点が全体にあるのか部分にあるのかという点は、かなり重要な別れ目であると思う。」

「神は細部にやどる」ではないですが、つくりこまれた細部や、はたまた自然のありかたは、ひとのまなざしをうばい、見つめさせる力をもつ気がします。そうやって、目を凝らして見つめさせる力とはなにか。

そうした建築のありかたや、空間の質、もしくは価値観や美的質といった議論に、21世紀に入ってから、出会う機会が少なくなった気もします。時代のエピステモロジーの変化でしょうか。

とはいえ、ディテールの美しかもちえないある意思のようなもの?とはなにか、それは対象に付随するのか、はたまた主体側に属するのか、両方なのか、考えてみたいな、と思わされました。

(たぶん続く)

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