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どんな時も支えてくれた母の弁当

実家に帰る時、何を楽しみにしているか

と聞かれて、「実家の両親の手料理」を挙げる人は多いのではないだろうか。

私もそのうちの一人である事に間違いない。そこから派生するのだが今回

「元気をもらったあの食事」

というテーマを考えた時、一番に浮かんだのが高校生〜看護師時代まで作ってもらっていた弁当だった。

義務教育中の給食が終わり、高校生になってから私は毎日お弁当を持って行っていた。

小さい頃からアトピー性皮膚炎が酷かった私の為に母は食べ物に特に注意を払ってくれていた。市販の添加物満載の冷凍食品はあまり使わなかったし、食材もオーガニックや無農薬などにこだわってくれた。そして食べ盛りの10代が満足できる様なボリュームがあって栄養満点の、美味しいお弁当を毎日作ってくれた。

今自分が大人になり、お弁当を作る側になってその有り難みが分かるのだが、毎日本当に大変だったと思う。
母自身もパートの仕事をしていたから、お弁当を持って行っていた為、姉と私と父、そして母自身の4つのお弁当を作っていた。
今思い返しても、朝4時半頃起きて毎日お弁当作りをしてくれていた母には本当に頭が上がらない。
そのお陰もあり、アトピーが徐々に良くなっていき、今は殆ど症状が無い。


高校生時代の私は部活も体育会系で朝練などもあったので、お弁当を2つ持って行った時期もあった。
早弁したりもした。笑

受験生である3年生の時は部活も無くなり、ひたすら勉強勉強の合間の昼休み、弁当の時間が唯一の楽しみの時間だった事を思い出す。

高校時代といえば、苦い思い出がある。
高校時代3年生に上がるクラス替えで1、2年ずっと仲が良かった子達とは私だけクラスが離れてしまった。

女子のあるあるだと思うが、誰と仲良くするか、どのグループに属するか、、という問題が浮上する。その中で何となくつるみ始め、次第にグループメンバーが固まっていく。
1人でいる子は、孤立した変わった子というレッテルが貼られるので、どこかのグループには属する事になる。これは10代の女子が皆体験した事があるのではと思う。

そうして、私もそのような過程で一緒に過ごしていた女子達がいたのだが、そのうち私以外の2人は私立大学だけ受験すると言う事が発端でハブられた事があった。

ある日の昼休み。
いつものようにお弁当を教室で3人で食べるものだと思っていた私は、他の2人をトイレに行ったと思い込み教室でお弁当を机の上に準備して、友達を待っていた。
しかし、待てども待てども全然帰って来ない。

結局、私は昼休みが終わる数分前迄待ち続け、もう昼休み終了のチャイムが鳴るかという頃に、笑いながらお弁当袋を下げて教室に戻ってきた2人を見て、やっと「私だけハブられたのだ」と気付いたのだ。

その時、溢れそうになる涙を堪えながら1人で昼休みが終わる寸前にお弁当を少し食べたのを覚えている。自分に「泣くな、ここで泣いてはダメだ」と言い聞かせて。
当然、あまり食べられなかった。
けれど、その日のお弁当が私の大好きな筍ご飯で、彩りの為に母が家の裏にある南天の葉っぱを添えてくれていたこと、そしてその心配りと優しさに心救われたのを覚えている。

その日、珍しくお弁当を残して帰ってきたのを心配した母に私は「お腹痛くなって。」と嘘をついた。
でも、美味しかったよとちゃんと伝えれてたかな。


大学生の時には少し余裕ができ、朝のお弁当を作る手伝いもするようになった。奨学金を借り、バイトもし始めたので、時々は学食を利用する事もあった。しかし、やっぱり看護実習で辛い時、国家試験前、学校で缶詰めになって友人達と試験勉強や卒業論文を書いた日々を支えてくれたのは母が作ってくれた弁当だった。

看護実習では指導者さんに怒られたり、患者さんと上手くコミュニケーションが出来ないなど落ち込んだ事も沢山あったが、昼休憩で一息つく間に食べる母の弁当に「頑張ってるね、お疲れ様」と励ましてもらえる気がして、元気をもらっていた。


看護師時代は実家から職場に通っていたため、引き続き母が作るお弁当にお世話になる事になった。
看護師は体力仕事だ。
病棟での業務はほぼ一日中立ちっぱなしな事が多く、午前中は清潔ケアがてんこもりでとにかく歩き回る。
加えて、担当の患者さんの手術の送り出し、入院患者受け入れなどのイベントが盛り沢山で病棟内を動き回るので休憩時間までには大層お腹が空く。なので、お弁当はいつもギュン詰にしてもらっていた。

一度先輩に、「あなたのお弁当おかずがこぼれ落ちそうな位入ってるわね、羨ましい」と言われ、休憩時間が被った同期には「ご飯が押し寿司並に圧縮されて入ってる」と、からかわれたこともあった。笑

定時に上がれる事は少なく、業務量が多く、心身ともエネルギー消費が著しい仕事だったので、本当に母のお弁当でエネルギー補給をさせてもらっていた。

初めて担当患者さんが亡くなった時には、何も喉を通らずお弁当を食べられなかった。


夜勤が苦手だった私は、夜休憩に食べる母のお弁当に元気をもらっていた。母は私が夜勤が苦手だと知っていたので、私の好きなおかずを多めに入れてくれたり、朝用の果物を入れてくれたりしていた。(朝の休憩も何か少し食べないと持たない)

昼間とは打って変わってシーンとした休憩室で夜勤休憩中にお弁当を食べる時は「夜勤前半は何もハプニングは無かった、このまま朝が無事にあけますように」と祈りを込めるような気持ちで食べていたのを思い出す。

緊張感と人の命を預かっているという責任感、そしてその中で心が疲弊していくのを感じた。
段々と看護師を辞めたいと思う様になり、身体的にも健康に影響が出始めたが、それでも何とか数年続けられたのは間違いなく実家暮らしで、母のお弁当があったからだと確信している。


こうやって振り返ると、大変な辛い日々にフォーカスが当たっているが、決してそれだけで無く、淡々と続いていたその何気ない毎日にも、いつも温かく寄り添ってくれていたのが母のお弁当だ。

母自身も仕事をしながら、ずっと作り続けてくれたお弁当。
今ならその大変さがよく分かる。

お母さん、本当にありがとう。

辛い時も嬉しい時も、苦しい時も楽しい時も。
ずっと私の健康を心身共に支えつづけてくれた、元気をもらった食事だ。




#元気をもらったあの食事

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