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お弁当箱の四隅(短編小説)

お弁当箱を洗っていた。
四隅に汚れが残っていないか、すすぎながら指の腹で確認する。
ヌルヌルしていればまだ汚れているし、指にひっかかりができるほどツルツルしていれば、とれている。合格だ。

いつもお弁当箱の四隅は、汚れが残りやすいから念入りに洗う。

ツルツルの感触を確認できるまでちゃんと洗わないと、残った汚れで食中毒でも起こしたらいやだから、指の腹でツルツルしたのを確認してからすすぐ。すすぐとやっとカゴに伏せる。

ふと、思い出す。乾いたお弁当箱の四隅はちゃんと洗えていなかった、お弁当箱を洗うのが下手くそだった彼は、ちゃんと元気にしてるかしら。

もう5年も前。恋人から夫婦になろうとしていたわたしたちが同棲し始めたのは。

そして同棲して、お前はいつから俺の母親になったんだ?と言い残して、半年もたたずあっけなく彼はいなくなった。

恋人だったときはよかった。彼の好みに合わせた服を着て、素振りをして、仕草を演じて、彼の機嫌をとればよかった。それで一緒にいることができた。

同棲を始めると、わたしは今までそうしてきたように、彼に合わせて生活を変えて、一生懸命尽くした。自分の仕事もあったけど、部署変更を願い出て、家事ができる時間に帰れるようにした。わたしは彼の帰宅に合わせて料理をつくり、お風呂を沸かして、かわいいエプロンで出迎えた。

朝は彼よりはやく起きて朝食とお弁当を作った。お弁当を持たせて会社に行くのを見送ると、わたしも仕事に出かけた。

彼はわたしが作ったお弁当は、持ち帰るときちんと洗って伏せておいてくれたけど、ある日その伏せられた弁当箱の四隅の汚れがとれていないのにわたしは気づいた。

わたしはそのへたくそな洗い方に愛しさを覚えながら、彼に注意することなんて考えもせず、無意識に何も考えず、彼のいる前で洗い直した。

その次の日も、そのまた次の日も。

彼はそんなわたしの行動に気づいていた。

そして彼はしばらくしていなくなった。暴言のように言葉を吐き連ね、駄々っ子のように怒り、わたしの言葉などひとつも聞かず出て行った。

わたしは一生懸命に彼に尽くしただけだったのに、彼はそれらの何もかもが気に入らなかったと言った。わけがわからなかった。一生懸命にやるだけでは愛情は繋ぎとめられないことを知って途方にくれた。

わたしは何年も経って、この恋をやっと思い出にできた頃、初めてこの恋の自分が全て不毛だったことに気づいた。

世間では一番好きな人ではなく、二番目に好きな人と結婚すると幸せになれるなんて言うが、あれは間違いではないと思う。

わたしはあのこっぴどい失恋を経て二番目に好きな人と結婚した。

結婚したあとも別れた彼のことは夢にみた。夢のなかでは何故か彼は私にゾッコンだ。目覚めて彼のいないことに絶望したことが何度もあった。夢のなかで、別れたはずの彼と結婚した夢を見て、夫になんて言って別れよう、なんて夢までみたりした。また目が覚めて、ああ、夢でよかったと安堵したり。わたしはきちんと夫を愛していて、彼に未練はないはずなのに、でもたまに夢に出てくる。愛していた記憶を思い出す。やめてほしい。

二番目に好きな人は、わたしをとても愛してくれ、わたしを甘やかし、労わってくれた。一番好きな彼との恋は実らなかったわたしは、何故か二番目に好きな人、夫にはわがままが言えた。素直に泣いたり怒ったりできた。不思議だったけど、力を抜いていられた。わたしが繋ぎ止めようと必死にならなくても、夫はいつもハートの目でわたしを見つめ、わたしを離さないでいてくれた。何故かわからないけど。でもとても楽だった。わたしは幸せだった。

でも、わたしもこっぴどい恋愛から学んだことがある。

夫のプライドをわざわざ傷つけたりしないこと。
自分は平気でも、夫が嫌なこともあること。

そんなこともわからなかった、過去の恋愛。

そう、夫も弁当箱の四隅の汚れを残しがち。
だけど、もう絶対に洗い直したりしない。




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