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速読がいいのか、遅読がいいのか?

高校のころ、『英語リーディング入門』という本を読んだ。内容はたぶん、今でいう多読のはしりだった。ペイパーバックをガンガン読む、そんなにむずかしくない本をたくさん読む、そういう話だったと思う。やさしめの英語で書かれたミステリー小説のペイパーバックのシリーズの紹介が、されてあった。

すっかり魅了されてしまったわたしは、このシリーズを全巻、いつもツケで買っていた近所の本屋に、注文した。しかし、街の近所の本屋に来るのを待ちきれずにいる間、紀伊国屋か何かでそのセットをみて、衝動的に買ってしまった。しばらくして近所の本屋に届いた本は、おわびして返本してもらった。まあそういうせっかちなやつだったのだ。

結局それを全部読んだかというとそういうことはなくて、それは目の前にあるやらなければならないこととの葛藤に打ちひしがれていたことと、じつは内容が今ひとつ面白くなかったからだ、と思う。いずれにしてもわたしは、ペイパーバックをさらさら読むという状態に、憧れていた。しかしその間、いわゆる長文読解で精読することは、やっていた。

大学院に行くころから、いろいろな小説を英語で読んだが、そのときもこの方法で、とにかく勢いにまかせて読んでいった。日本語の本も、1日1冊、薄い文庫本なら4冊くらいは読むこともあったので、英語の本も、同じように読みたかったのである。

無謀にも、19世紀の文学作品などでも、がんがんページをめくっていった。なんとなくわかった、くらいのときも多々あるのだが、とにかく読後感というものが、身体にずしっとくる、そういう感じで読んでいた。よくわかっていないところはまた読めばいいや、というような感じで、実際何度か読んだ。

翻訳やあらすじも使うときは使って、内容を理解して、また原書を1日か2日で1冊とか読む。1ページの密度に応じて、午前中に100ページとか、50ページとか。現代小説などは、1日か2日で1冊、読み飛ばしていると、後半になって、同じスピードで読んでいても、結構全部が頭に入ってくる、というような状態になった。

しかし、精読、遅読をしなければならないときもある。イギリスに行ってから、古典中の古典である大部な19世紀小説を、きちんと精読した。1日何ページだったか忘れてしまったが、80ページくらいだったかもしれない。とにかく少なくとも読んでいるときは、ほぼすべてがそのまま頭に入っているように、読んでいった。

これをやっていたとき、今までの自分の読み方はなんだったのか、と愕然とした。読むとはこういうことだったのではないかと。

そうこうしているうちに、ちまたで多読速読が流行りはじめた。今までの精読を改め、内容がわからなくても適当に、とにかくたくさん読みましょう、そうすれば喋れるようになります、というのだ。これは自分の経験と、反している。結局はていねいに読んだ方がいい、という結論になったのに、今まで自分がこうではいけなかった、と思っていた読み方が、社会で賞賛されるようになっていた。

多読は本当に効果があるのだろうか。ある、と著者たちは言っている。結局あれはなんだったのか、と思ったものの、たしかに実際わたしは、流行るまえから多読をやっていた。それも実際、素地にはなっていたのかもしれない。今になるとまた、そうも思う。

とはいえ、自分の経験からいうと、しっかりした実力をつけるためには、よくわかっていなくてもひたすら多読だけ、というのもどういうものか。きちんと辞書を引きながら、文法構造と内容を理解しながら読むことを積み重ねると、それがだんだん、早くなっていく。

もっといいのは、同じものを何度も読むことによって、そこに書いてある語彙や表現を、あらかた覚えてしまうことである。これをやると、飛躍的に読解力が上がる。

ある友人(日本人ではない)は、本を読んでいてわからない言葉があると、辞書は引かずに、その辺にいる人に意味を聞くのだそうだ。しかし、まわりに教えてくれる人がいなければ、やはり辞書で確かめるしかない。

結局はどちらかだけということではなく、両方を積み重ねるしかないような気がする。

#多読 #速読 #遅読 #精読 #読書 #英語 #外国語 #田中ちはる

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