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ROMA:存在は孤独を共有する経験にほかならない

これは台湾映画なのか?そういう錯覚にとらわれながら、メキシコシティが舞台であるこの映画を、わたしは観ていた。侯孝賢やエドワード・ヤンといった、台湾ニューウェイヴ映画のことである。

その理由のひとつは、主人公の女性クレオが、原住民であること。アジアではないが、白人でも黒人でもない、女性の物語なのだ。つまり、通常はスポットライトを当てられることのない、無名の人物が、女性が、召使が、主人公になっている。

そして彼女は、実在の人物である。この映画は、アルフォンソ・キュアロン監督の子供時代の記憶を、かれいわく、そのままに再現した物語だからである。ここに出てくる家庭の息子は、かれ自身だった。

この映画を観てまっさきに印象づけられるのは、カメラの緩やかな横への移動で画面がつくられていること、つまりスローなパンとトラッキングが、多用されていることである。そうかと思えば、犬のフンが転がった床を映して、カメラはゆっくりとそこにとどまる。

台湾映画的な印象は、もちろんこのような撮影作法からきている。そしてそれはとりもなおさず、キュアロンが、台湾ニューウェイヴ映画の監督たちと同様に、無名の人々と、かれらの時間と空間を尊重するという姿勢で、映画を撮っているということである。

どこかにアクセントを置いて、観客に、これを見ろ、と強制する撮り方ではない。ロングショットでゆっくりとカメラを横に移動させて、全体の風景を公平に映しとることで、特殊な場面というより、時間と空間そのものを、映画のなかに、再現している。

そうすることで、かれの記憶のなかのコロニア・ローマ(メキシコシティ近郊の街)、そしてかれ自身の家族の物語と交錯する、一介の召使であったクレオの物語を、語ることができている。歴史上はなんでもない人間を、最大限に尊重して映画の主役を張らせることが、できている。演じた女性も、演技経験のない一般人だった。

この映画が捧げられているリボが、クレオのモデルである。キュアロンは、リボと際限のないほど対話を重ね、彼女の話を存分に聴くことで、彼女の物語を構築した。

「こんな時代」(!)に、よくヒューマニズムの映画を作りましたね、と質問されたキュアロンは、いや、わたしは自分のことを考えていただけです、と言った。自分がどういうものから作られてきたのかを、知りたかったのだと。だからこの映画がノスタルジーだと言った観客に対して、そうではない、と答えた。

カメラは未来から来た幽霊のように、記憶の世界を目撃し、追体験してゆく。だからこの映画は白黒であり、そして現代のカメラの粋をきわめた、65ミリのデジタルカメラで、撮影されている。現代の自分、現代の観客が、監督の、観客自身の記憶のなかに、入っていく。そういう映画になっているのだ。

キュアロンは、自分の記憶に忠実に、つまり実際の当時の社会を、街を、音や隣人の顔にいたるまで、こと細かく再現したという。社会自身がもつ音楽的リズムを、表現した。出てくる人物はみな、キュアロンの記憶のなかの実在の人物の、ドッペルゲンガー(分身)だった。

俳優たちは台本を渡されず、今日はこういう状況で、ということを毎日キュアロンに聞いて、演技をした。それを聞くのは個別にであり、みんな一緒の打ち合わせではなかった。撮影は完璧に、時間の順序に沿って行われた。つまり、映画の撮影は、あたかも各人が各人の人生を生きていくようにして、行われた。何か突発事項が起きたら、話の流れは変わっていただろうと、キュアロンは言っている。

そのように注意深く準備された環境の中で、人生の魔法が、立ち現れる。映画を撮影するプロセスは、人生のプロセスそのものだった。クレオを演じた女性は、映画に出ているとは思っていなかった、という。自分の人生を生きるように、映画の中の人生を、生きていたのだと。

この物語は、クレオの物語であると同時に、クレオの雇い主であるキュアロン一家の物語である。クレオを誘惑してセックスした武道男は、彼女が妊娠したのを知るや彼女を捨てる。大きすぎるフォードを運転し、いつも車で床のフンを踏みつけにしていた(それを掃除するのはいうまでもなくクレオ)キュアロンの父親は、若い女に走って、母親と自分たちを捨てた。母親は、トラブルに巻き込まれたクレオを、家族としてやさしく介抱する。

世には離婚が耐えないように、そして親子ですらすべての場合にうまくいくわけではないように、実際の家族が、機能しない場合もある。そういうとき、概念としての家族は、血のつながりや、婚姻関係にかぎらず、拡大せざるを得ない。

クレオはキュアロン一家(マイナス父親)との心のつながりのなかで生きることができただろうし、キュアロン一家にとってもクレオは、そうした家族の一員だった。

存在は、孤独を共有する経験に他ならない。キュアロンの名言である。

(付記:映画はNetflixで配信され、ヴェネチィア映画祭金獅子賞を受賞した)


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