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そのカミングアウトが差別を晒す

差別や偏見が残っているのだとすれば、
今回の勝間さんの件でそれが更に厳しく晒されたと、私は思った。

カミングアウトという言葉が、それを助長した。

単純なのだが、同性愛はカミングアウトが必要なぐらい特別なことなのか?

みんな、異性を愛するとき、自然にそうなるのと同じように、

異性愛者であっても、同性愛になる可能性なんていくらでもある、逆もまた然りだ。

こんなに特別視されるのは、その可能性を人生から排除している人が多いということなんだろう

そう思い、いま、仕事場の休憩室で悶々としている。


私は異性愛者だけれど、一度だけ女の子に心奪われたことがある。

仕事関係で出会った、その子。見た目は元もと、かなり中性的だった。

後ろの髪を刈り上げて、切れ長の目なのに、少し鼻がぽってりしていて、でも肌が驚くほど滑らかで。

初めてあったときに、目が合った瞬間にすっとした風が流れ込む、そんなこ。

中国の家で生まれ育ったその子と、共通の言語を持っていたこともあって、

仲良くなるのも一瞬だった。苦しいぐらいに。一緒だった毎日があった。

お互いがお互いを大好きだと、それだけが分かっている、
白いハチミツみたいな、あの人生で一番甘い時間があった。

あるとき、その子が言ってくれた。

「ちぃは、とっても素敵な女の子だね、だからきっと、彼氏がいるんだろ?」

素敵と言われてうれしいとおもいながら、私は答えて、会話は流れていく。

「うん、いるよ。遠くに。上海にね。」

「そうか。」

「るぅは、パートナーいるの?」

「いるよ。かわいい彼女がね。」

「るぅがパートナーとして選ぶなら、素敵な子だろうね。」


その子がそっと流れて歌うようにいった「彼女がね」が、

自然すぎて私は気づく。

ああ、そういうことなのね。

そうだった、本来はそうなはず。異性も同性も全てない。人を好きなのって、自然なこと。

その子のそれは、カミングアウトじゃなかった。特別なことじゃなかったから。

そう、それだけなことだ。


という、

この、私の小さな恋の話もとってもつまらなかくて退屈な話だ。

そう、だから、私の色恋など誰もどうにでも良いように、

わざわざ、「俺は女が好きだ!」「私は男好きなの!」と言わないのと同じように、

誰にとってもそれはありふれた話。

同性愛とか、LGBTっていう括りも本当はいらないんじゃないだろうか?

括るから特別になる。


勝間さんを批判したいとかそういうことではなくて、

明日、誰でも死ぬ可能性を持っているのと同じように、

1時間後、とんでもなく良いことを閃いてしまうかもしれないのと同じように、

来週、お腹が痛くてベッドで寝込んでるかもしれないのと同じぐらいに

今まで異性しか愛したことがなくても、
同性を思う日がくるかもしれない。

それだけのことだ。たった、それだけ。

誰にだってそれは降るかもしれないのに。

なんの特別も、そこにはないのに。

それをカミングアウトという言葉がまた特別な場所に押し上げてしまったな。

そんな残念な気持ちを抱えた、休憩時間だった。


#カミングアウト #エッセイ #コラム #愛 #cakesコンテスト

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