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在上海活下记录 2

芥川龍之介 「上海遊記」に寄せて

この記事は、前日の在上海活下记录1の続きになります。


悉くしつこい車屋の間を抜け切り、父の会社が用意した車までたどり着いた。そこの車はピカリと太阳を反射する白金色で塵ひとつついていない。ふっと後ろを振り返ると、数かずの車屋の其れは全て黒いがそこにはびっしりと黄砂が付いている..いま自分が立つ白金の車の近くは、突然にそことの空気が隔絶されたような気になった。不相変(あいかわらず)、人の往来に対して、車屋は何かを喚いていた。



揺れに揺られたどり着いた小籠包屋は白い給仕服を着た女たちとその感高い声が共に右往左往と行き交っていた。席についた途端、その内の一人が追いかけるようについてきて、小皿や蓮華や箸をものすごい速さで投げ置いていく。それを見ただけでもこの餐店の中心は客ではないと感づいた。注文した順に机の上に積み上がる蒸籠、客の方はほとんど見ずにヒラヒラと白い蝶が舞うように給仕する女たち。薄桃色に塗られた壁と湯気に囲まれて丸く小さな小籠包の袋をそっと破く。蓮華を波並みに満たすスウプ。やっとこの店の中心が如何なるものなのかを見つけたのだ。



夜は、明るく賑う往来を歩いた。街で出会うのは朱色の看板に黄金色の字で何の店かを謳うものばかりで、忽ち目が奪われる。と、思うと道にはいきなり変な凹みや凸が現れ、そちらに足を取られて転びそうになる。莫迦(ばか)め、と上海の街に言われているようである。ここで容易く生きるのだけは許さないぞと。たちあがりゴクリと一口、持っていた曹達(ソオダ)を喉に引き入れる。

其処へパタンパタンと辿々しい足音が聞こえた。ふいに幼子が走ってきて美しいカアネイションを突き出し何かを言っている。その目は全く光のない生きる志しの無い目.............と不意に、支那人の男が大きな腹を突き出して後ろから歩いてきて手の端がぶつかり、その子は転んでしまう。男はチラッと一瞥をくべたものの、構う所なく歩き出した。幼子は一言も泣きもせず、グシャリと潰れるカァネイションを拾い上げて、またブツブツと何かを訴え続けている。

「花を売らされているんだよ」話しながら後ろから来た父が指差す方には、カァネイションを籠いっぱいに持つ一人の老婆がいた。その周りには一輪ずつのカァネイションを手に持つ幼子。立ち尽くす私の前で、「普段はやらないけれどね」と言いながら、父は潰れたカァネイションを持つその子に50元札を握らせた。と分かるや否や、周りの幼子も血相を変えて走ってきて、ワァワァワァと父に花を差し出した。
父はそれを軽く制すが、彼方も全く引かない。
「ほらね、生きると言うことは....」
そこまで言って、彼はゆっくりと歩き出した。その言葉の続きを知るのはきっと、あの強欲に売られる潰れたカァネイションだけである..


《終》


芥川龍之介の上海遊記があまりにも悲哀にみちた上海を私の頭の中に映し出すので、いてもたってもいられず、上海に着いたその日に体験した悲哀をレトロな文章に認めてみました。初日だったからこそのインパクトかもしれませんが、ここに書いたことが上海で体験した1番悲しいことだったのかもしれません。花売りの幼子は、今の上海ではもう見なくなりました。彼らに未来があることをひたすらに願い続けるばかりです。

芥川の上海遊記は映画にもなるようです。ビジュアルが美しすぎるので、是非。




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