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茶々と秀吉、元凶はどっち?

茶々VS阿茶局のバチバチの火花散る会話が恐ろしかったですね~💦

我が殿にも憑りついて離れませぬゆえ、キツネを見つけたら“退治”しようと。
お見かけになっておりませぬか……

と、笑顔●●で阿茶局が言えば、

「見ておりませぬ。
キツネ退治、大いに励んでくだされ」

と、茶々が笑顔●●で答える。


こっわっ!!

家康ドン引き💦


これから「関ケ原の戦い」~「大坂の陣」に向けて、最もバトルであろう女たちの戦いの火蓋が切られました。

これからのこの二人の戦いは見ものです。

だいたい、茶々が家康をこっそり訪ねるなどないと思いますが…


家康VS秀吉、そして足利義昭

家康が秀吉を諫めたシーンの緊迫したものがありました。

茶々の女狐ぶりを見抜いた家康は、秀吉に遠ざけるように諫言するのですが、秀吉は聞き入れない。

そこで、家康が放ったセリフが、

「目を覚ませ。惨めぞ、猿!」

ちょっとここは家康がかっこ良すぎでしょう💦
主役だから仕方がないですが、
この時期の秀吉に「猿!」などと言っていたら、即刻アウトでしょう。

あんなにも弱虫だった家康が、ずいぶん落ち着いた貫禄を身につけたものです。

家康もまたさらに陋猥ろうわいさを増してゆくのですが、この時期はまだ形だけでも秀吉にも信頼され、一番の男盛りだったのかもしれません。

まさしくその場は一触触発の重い空気になったところに、思いもよらない人物が登場しました。


てっぺんは独り

なんとそこに足利義昭(古田新太)が乱入してきて、何を言うかと思えば、なかなか核心を衝く言葉を残しました。

「てっぺんは独りぼっちじゃ。
信用する者を間違えてはならんのう。」

この言葉に秀吉も我に返り、
「わしを見捨てるなよ」
と、ぼそりと言い視点さえ定まらない様子が、本当の姿なのかもしれません。

秀吉の横暴と限りない欲は、
生まれが下賤のため、代々の家臣もおらず己の知略だけでのし上がってきた男の孤独を解消するためのものだったのかもしれません。

しかし、天下人に登りつめても解消されることはなかったのです。

それにしても意外にも義昭は良い仕事をしました。



茶々は悪女か賢女か?

悪女としての出処は何?

淀君は北条政子、日野富子と並んで、日本の三大悪女として名高いですが、果たしてそうなのでしょうか?

プライドが高く、常に人を見下した態度であり、豊臣家が滅亡したのも彼女のせいだとされています。

徳川の治世となった中で、やはり豊臣は仇であり、極端な悪役が必要だったため、彼女が豊臣の元凶だとされた節があります。

そもそも「淀」という呼び名にも悪意があり、「君」と付けるのは当時は遊女などに付ける愛称なので、淀城に住んでいたからという理由ならば、一貫して「淀殿」というのが正しい。

ですから、当時は蔑称とも言える「淀君」と呼ぶ者などいなかったのです。

実は明治の小説家・坪内逍遥の戯曲で関ヶ原の戦い直後の豊臣家の混乱を描いた「桐一葉」で「淀君」と書かれていたのが最初のようです。

それらはどうも江戸時代に入ってから、軍記物などの一般的な娯楽創作物で物語を面白くするために、誇張して描かれた作り話の可能性が高いのです。


心優しい一面もあった

確かに茶々は気位が高くプライドも高かったのは事実でしょう。
しかしそれは決して道理から脱線したものではありませんでした。

彼女のサイドストーリーを紐解いてみると、心豊かで優しい面も見えてくるのです。

過去にも記事にしましたが、実妹のお江の父親の違う2人の娘を愛情豊かに育て上げています。

完子さだこは戦とは無縁の公家へ嫁がせ、千姫は愛息・秀頼の正室として、それは大切に扱っていて、千姫などは大阪城落城の時には、祖父の家康に茶々の命乞いを切願したほどでした。

他にも、
・信長の側室・お鍋の方の生活苦を哀れみ、50石の援助をした。
・茶々の命日にはかつての侍女たちが墓前に集まって供養した。
などの記述も残されています。

最後まで家康にはことごとく逆らい続けたとされていますが、近年の史料では大阪冬の陣の最中に江戸へ人質となる事に同意したり、大坂方の浪人たちの禄の加増を出願したりと、意外にも視野の広い思いやりさえ伺う事ができるのです。


それらの賢女的な一面は、作り話によってもみ消されたのでしょうか。


秀頼は誰の子か?

秀吉は遺伝的な疾患があったのか?

いよいよ核心に触れます。

正室の寧々をはじめ、それまで数多の側室がいながら、誰一人懐妊することがなかったのに、どうして茶々だけが2回も懐妊できたのでしょうか?

どう考えてもあり得ない。

秀吉は長浜城主時代に子供を授かって、幼くして急逝したと伝わりますが、信憑性のある史実は確認できていません。

昔は石女いしずめと言われて、不妊の原因は全てが女性のせいにされてきましたが、現代医学においては男性側の原因も挙げらています

例えば秀吉の実弟・秀長も実子の記録が1人もありません。
そこから考えられるのは、何か遺伝的な理由で「男性不妊症」だったのかもしれません。

だとすると、秀頼は誰の子か??

一般的に広く知られるのは、石田三成か、茶々の乳母・大蔵卿局おおくらきょうのつぼねの息子、大野治長かと言われています。

「どうする家康」では大野治長役は玉山鉄二さんが決まっていますので、彼が父親の説を採るのでしょうか?


狂った秀吉による殺戮

実はこの頃、秀吉による恐ろしい殺戮ともいえる処刑がありました。

茶々の周りに仕える者たち約30名を淫らな男女関係があったとして、皆殺しにしているのです。

まるで言いがかりともいえる理由で、有無を言わさず処刑し、歴史家の磯田道史さんがテレビ番組で、この時のどさくさに秀頼の実父も殺されたのではないかと仮説も言われていました。

何の番組だったのか思い出せないが。

その時に、なぜか茶々だけが不問だったのは、どうみても不自然です。


高貴な血の我が子が欲しい

ようするに、茶々の懐妊にまつわる口封じのための処刑だったとも取れるのです。

ただし、そうなれば秀吉自身も我が子ではないという確信があったはずですし、だったらなぜ茶々だけが許されたのか?

とんでもない妄想をすると、これらは全て秀吉による陰謀かもしれない。

何の後ろ盾もなく、下賤な身上に大きなコンプレックスを持っていた秀吉は、茶々が持つ織田と浅井の血筋をどうしても利用したかったのかもしれません。

そうなると、京極家の竜子だってそうなのですが、どうして茶々なのだという事になりますが、織田の血がどうしても欲しかったのと、時期的に自分の残りの人生を考えて、秀吉は焦った可能性もあります。


これはとんでもない歴史ミステリーです。

私の思いを整理すると、
・茶々は誇り高き戦国の女性で視野が広い賢女であり、不義など考えられない。
・秀吉は茶々方の高貴な血さえ受け継いだ子であれば、父親など誰でもよかった。

これらの矛盾する2点の事は、どうしても決定的なピースが見当たらず、また真相は闇に包まれてしまうのです。

ただ一つ言えることは、秀吉の貪欲さは尽きることはなく、不可能な物まで手に入れようとしたのは事実ではないか。

そして、どうしても浅井と織田の血を残したかったという点においては、秀吉と茶々の利害は一致するのです。



秀吉の死因と無念

次回のタイトルは「太閤、くたばる」です。
くたばる●●●●」ってあんまりな表現です。

確かに秀吉の最後は半ば認知か?と思えるほど、狂っていました。
しかし彼が没したのはまだ62歳です。
当時にしては長生きかもしれませんが、もっと長く生きた人もいました。

認知と言うより、欲のあまりに精神的に狂ったと言った方が良いのかもしれません。

わが子可愛さに、関白職を譲った秀次に難癖をつけて、正室、側室、子など30人ほどを京都の三条河原で公開処刑にして、徹底的に根絶やしにしています。

これは正気の沙汰ではないし、そもそも朝鮮出兵だってそうでした。


秀吉の死因はハッキリしないのですが、残された記録の症状から、梅毒、大腸がん、赤痢、尿毒症、腎虚じんきょなどが考えられています。

しかし、毒殺説もあり、業を煮やした家康によるものだという仮説もあるぐらいです。

ここまで狂った秀吉を家康じゃなくても、他にも多くの武将がその死を望んだことでしょう。


ただ我が子・秀頼の行く末だけを案じて死んでいった秀吉の最期は、惨めでした。
あらゆるものを我がものとしながら、一番欲しかった自分の直の血統だけはとうとう残せなかったのですから。

自分が仕組んだ秀頼の血統もまた、絶える事をこの時には予想していたのかもしれません。





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【参考サイト】
最期と原因ドットコム
ヒストリーランド


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