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べクトルを自分に向ければ世界は変わる

前回の記事で例えるなら、まさに共鳴し合っているnoterさんの一人であるcoucouさんの記事から感じたがあります。

正直どの記事もそれぞれが秀逸で素晴らしいのですが、今回は特に一昨日の記事に着目してみたいと思います。

人の感情は、大まかに分けると喜怒哀楽が存在します。
「喜」と「楽」はウエルカムですが、「怒」と「哀」はできるだけ避けたい厄介な感情です。

しかし人生には「怒」も「哀」もお構いなしにやって来て、否応なしに心を支配する時があります。

そんな時は、お世辞にも穏やかな平常心であるとは言い難く、下手したら「憎」や「恨」にまで発展してしまう時があります。

いつの間にかマイナスの感情に左右されてしまい、気がつけばとても苦しんでいる自分がいます。

なぜ?自分は何も悪くないのに…

そう思い込んで回りの方が悪いと、外に向けていたベクトルを、逆に自分に向けてみると、ごく当たり前の基本的な事に気付くものです。

自分の能力のなさと、
incompetence and
自分のキャパの狭さと、
The narrowness of my capacity,
自分の無力感がわかるようになった。
I became aware of my helplessness.
そう、一番駄目なのは、自分だったのさ…。
Yes, I was the one who was the most useless...

上記記事より引用

自分自身にベクトルを向けてみると、世界は意外な見え方をし、今まで観ていたのはいったい何だったのかと驚くことがあります。

外を見たくないなら、内を見てみる。
押してもダメなら引いてみる。
あぁしんどいなぁと感じたなら、自分のスタンツを変えてみると、答えは簡単に見つかるものです。


この世の基本真理

一切皆苦いっさいかいく
~人生は思い通りにならない

仏教では思い通りにならない事を総称して「苦」と言います。
まずこれに気付いた時こそがスタート地点だと思ってください。

大まかに分けて「四苦」というのは、以下の通りです。
・生きる苦しみ
・老いてゆく苦しみ
・病気の苦しみ
・死んでゆく恐怖苦しみ

さらに様々な「苦」の四字熟語があります。
五蘊盛苦ごうんじょうくー心身をコントロールできない
愛別離苦あいべつりくーどんなに愛する人にでも別れはある
怨憎会苦おんぞうえくー人を憎む
求不得苦ぐふとっくー求めるものが手に入らない

誰もが持つ感情ですが、いわゆる仏教でいうところの「煩悩」です。
ましてや物事や人に対して過度の期待は依存になるもので、最初からアテにさえしていなければ、おそらく「苦」にはならないはずです。

しかし、それがなかなか出来ないのが人間でもあります。


諸行無常しょぎょうむじょう
~世は常に移り変わるもの

形あるものはいつかは壊れます。
あらゆる生命体はいつかは滅び、財産や名誉もいつかは無くなります。
世の中は絶えず変化していて、今あるものが永遠ではありません。

変わらないと錯覚して、物事に執着する事は苦しみを招く元となります。


諸法無我しょほうむが
~全ては因果関係で繋がっている

この世は全ての事で繋がっています。
全ての事がそれぞれ影響を与え合い、自然環境のように「絶妙な均衡」を保っています。

自分ひとりで生きているのではなく、大きな関係性の中で「生かされている」という存在なのです。


涅槃寂静ねはんじゃくじょう
~理解した上で開く悟りの境地

宗派に関わらず、仏教での最終目標は「幸せな人生」です。
物質的な欲を満たすものではなく、「心」の満足さを指します。

自分以外のものに原因を求めると、些細な事で一喜一憂し、気付くと自分を見失ってまわりに振り回されてしまいがちです。
他者に対しての「怒」は自分の「心」が生み出したものだと気付いた時、初めて「安定した心」、すなわち悟りに到達するのです。



自分を愛する事=他者を愛する事

仏教の創始者・お釈迦様の言葉です。

「自分を幸せにする道は一つ、それは自分を大切にする事である。」

引用元:妙福寺PRESS

勘違いしてはいけないのは、「自分を大切にする」とは、自己中心的で「利己的」になる事ではありません。

他者の幸せも併せて考えて行動することなのです。

自分自身は、決して「個」で成り立っているわけではなく社会や自然の生態系の一員として、それらの恩恵を受けながら影響し合うからこそ存在意義がります。

大きな世界の一員である事を常に意識すると自分一人だけでなく、まわりのありとあらゆるものが愛おしくなってきませんか?

その考えに至った生き方こそが「菩薩」といい、決して信仰の対象である仏様を単純に指すのではなく、その本意は「生き方」そのものなのです。

自分を愛し人も愛すことは、それだけで「菩薩」に認定されます。
ただし自分だけの認定ですが…


自分を肯定しないと始まらない

自分を見つめる

何にもまして自分に誠実であれ。

名言から学ぶ幸せのヒント

イギリスの劇作家・シェイクスピアもやはり同じ意味の言葉を残しています。

この「何にもまして● ● ● ● ● ●」がミソで、
まずは、「自分の心に正直に生きる」ことが一番肝心なのです。

様々なしがらみを考えて、自分以外のものに心を左右され、なかなか正直な自分を見つけるのは難しいかもしれません。

しかし、

生きる事が苦しいのは、自分に正直に生きていないことにあります。

そんな時、まずは自分はどうしたいかを問いかけてみたら、必ず正直な自分を導き出す事ができるはずです。

幸せになる答えは、
必ず自分の中にあります。

外の他者にベクトルを向ける前に、逆向きにベクトルを自分に向けてみたら、必ず解決できるはずなのです。

暗い世界を明るくするのは自分の「心」次第なのです。


自分に優しくなることが第一歩

まずは自分を愛する事ができてこそ、初めて社会や自然などと無理なく共存できるのではないでしょうか?

それがわかるまで、私も60年という年月を費やしました。

若い頃はそれがわからず、些細な事で心を左右され、視野が狭くなり、自分自身を認めてあげるのが難しくなることもありました。

何度か同じような経験をすると、
自分が一人で悩んでいても何の解決にもならないと気付き、
自分はどうしたい?
自分は何が出来る?
という問いかけから結論を出して行動すると、スッキリして爽快な気分になれる事もわかってきました。

最初から能天気なのは話になりませんが、やはり「悩む」という事は人生にはとっても大事な修行だと思います。

「悩む」→「苦しい」→「解決したい」→「正直を見つける」→「行動する」

自分の悩みが解決される事で、結局は周りの人達にも「幸せ」を与えることになるはずです。

だって、悩んでいるとどうしても態度がもギスギスしたり、暗くなったりしますから。


人生にはたくさんの喜怒哀楽が巡ってきます。
それらはきっと修業なのでしょう。

喜怒哀楽の経験こそ、自分も他者も愛する事ができる「菩薩」になるためのアイテムであり、どの段階で気付くのかは人それぞれですが、確実に言える事はみんな一人残らず「菩薩」になるべき資質は平等にあります。

人生という修行を積まないと到達できない世界を、自分の為に目指しましょう。


というわけで、「幸せな人生」を生きる私なりの結論は、

ええやん。そのまんまで。
自分のポリシーは捨てたらあかんよ。




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【参考文献】
妙福寺PRESS
日蓮宗「いのちに合掌」


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