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御朱印でわかる神社仏閣の「心構え」

ご朱印の由来は諸説ありますが、もともとはお寺で納経をした際の証としての「納経印」が原型で寺院が元祖です。

本来は「御納経御朱印」 などと呼ばれ、経典を写経したものを寺院に納めた代わりに証として受ける領証(証明印)であった。そのため朱印を受けることを「納経」ともいう。

Wikipedia

それでは「経」の存在しない神社はどうなの?
という疑問が湧いてきますが、正しくお参りさえすれば堂々といただける資格はあるようです。

本来は決してブラっと行って、適当に散歩して、いい加減な気持ちでもらっていいものではないはずなのですが、感覚的には神社仏閣の単なる訪問記念印となっていますね。

私どものサークル「レキジョークル」でも、当然のように何もせずもらい、混雑して行列ができていようものなら、本堂でのお参りもせずに先に頂く場合すらあります。

今では単に「訪問記念印」と化した御朱印とは、本来どのようなものだったのかをまとめてみました。


起源は平安時代か?

神社の御朱印は神仏習合の名残?

元々が仏教寺院での納経印だった御朱印が、なぜ神社でももらう事ができるのでしょう?

これには日本人の珍しい信仰のカタチである「神仏習合」が関係しているのです。

同じ敷地内に神道と仏教を共存させて、時には神様を仏様に置き換えて崇めたりすることで、ご利益を得ようという考え方でした。

それが明治以降に神仏分離政策が取られ、神道と仏教は別のものとして取り扱い、神社と寺院が完全に切り離されたのです。

元々は一つだった神社と寺院の名残りで、仏教寺院における「納経印」が、神社にも存在するようになりました。

そして「御朱印」と言われるようになったのも、なんと昭和10年頃からとの事なので、意外と新しいものなのですね。


起源は「六十六部廻国聖ろくじゅうろくぶかいこくひじり

その起源には六十六部廻国聖ろくじゅうろくぶかいこくひじりといわれる人々が関係しています。

日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者です。

徳島県立博物館

彼らはプロの専業宗教者で、霊場をめぐりながら納経して、その印をもらっていた事が始まりではないかとされています。

いつ頃の時代の発祥なのかははっきりしないのですが、『太平記』には鎌倉幕府・初代執権となった北条時政の前世が66カ国の霊地に法華経を奉納した箱根法師だったとあります。

しかも、源頼朝梶原景時などの前世も六十六部廻国聖とする伝承も当時は定着していました。

これらの事から、発祥は少なくとも平安時代以前であると推定でき、しかも関東で始まったのではないかと思われます。



御朱印に記されるもの

御朱印に表記されるものはどんなものなのか一般的なものを挙げてみます。
これらは「印」であったり「墨書」であったり、場所によって様々で、いずれかが無いものもあります。

御宝印ー「仏」「法」「僧」「宝」の四字を刻んだ印
三宝印ー御本尊を示す朱印
寺号印-寺や神社の名
山号印ー寺の称号。延暦寺の「比叡山」、浅草寺の「金竜山」など
尊号 ー尊んで言う呼び名。空海の「弘法大師」最澄の「伝教太師」など
法語 ー教えを説いた言葉
参拝日
「奉拝」ーそのままが書かれているか印のいずれか。

単なる「訪問記念印」と捉えているバチ当たりな私にとっては、寺院や神社を問わず重要なのは、社寺名と参拝日でしょうか?
「どこで」「いつ」という所が、思い出として欲しい部分です。

それも達筆だった場合に限ることで、中にはひっくり返るほど下手な筆があり、その場合はありがたみを感じる前に、苦笑するしかありません。

私も悪筆ですが、
「自分で書いた方がマシやん」
と思う事もよくある💧

特に神社に悪筆のものが多い。

「やっぱり、御朱印は寺やな。」これはチコさんが思わず漏らした言葉で、この裏には暗に「神社は大したことない。」が含まれます。

「奥の枝道」神社仏閣編(上)

著書でも書かせていただきましたが、チコさんの言う「御朱印は寺やな」というのを身をもって体験しています。
元はと言えば寺院の風習が発祥なだけあって、お寺のものの方が卓越しているのは間違いないです。


寺院と神社の特徴くらべ

神社バージョン

とはいえ、神社でも達筆のところもあります。
相対的に見て神社は崩し文字ではなくキッチリ整った「楷書」で書かれているものが多いです。

多少崩していても、読める字なのです。

比較的達筆な神社のものを集めてみましたが、どれもシンプルで規定通り整然とまとめられいます。

神社によっては中央に社印をメインとした御朱印もあり、昨年訪れた名古屋の「熱田神宮」も格式のわりには「印」が中央メインにありました。

神社の御朱印の特徴
・シンプル
・比較的クセのない楷書
・悪筆が多い
・毛筆書きでない所も多い


寺院バージョン

ところが寺院のものになると、個性的な崩し文字が多いため読めないものが多いです。 

しかもほとんどのものが達筆で、もう完全に一つのアートとして鑑賞できる域に達しているのです。

達筆なものを選ぼうとすると、多すぎて絞る事は難しく、特に弘法大師こと空海の開いた高野山はどのお堂も達筆過ぎて、それぞれに素晴らしい個性があります。

奈良の室生寺の達筆ぶりも驚くもので、惚れ惚れと何度も見直しました。
私としてはこれが今のところ1位です。

寺院の御朱印の特徴
・達筆が多い
・行書や梵字など特徴ある字が多い
・印と毛筆の全体バランスが絶妙
・必ず墨書がメイン


御朱印に思う事

貰い損ねた御朱印

こうやって「御朱印」を収集していると、まだ御朱印に目覚めていない頃に訪れた神社仏閣のものが無いのがとても残念です。

もう一度行って貰えばいいのですが、その時の日付のものは二度と頂けないと思うと後悔しかありません。

例えば長野県の善光寺、奈良の東大寺や法隆寺、春日大社
レキジョークルや個人でも訪れているのに、無いのが悔やまれ、ポッカリ穴が開いたような喪失感さえ感じています。


たかが300円、されど300円

一枚300円が相場なので大した金額ではないのですが、比叡山や高野山、先日行った三井寺などのうような大寺にはたくさんのお堂があり、それぞれに御朱印がある上、まれに特別記念となると500円のものもあり、全部集めようと思うとなかなかの出費になります。

「三井寺」では御朱印一覧パネルがあった。

しかも、ひとつのお堂でも複数の種類の御朱印があったりもするので、全部を集めるとなればバカにできない額になり、私は一つのお堂で一種と決めています。


「書」はアートだ!

これは、私が常日頃から思っている事です。
書いてある内容も大事ですが、人によって違う筆運びのアート感がたまらなく好きです。

御朱印も一つ一つが完成された芸術であると思うのです。
由緒ある神社仏閣ほど素晴らしい芸術性を発揮しているのを見ると、その心構えまでが美しいとさえ感じるのです。

「御朱印」は神社仏閣の
「心」の表れだと思っています。


だからせめて、書かれる方も心ある字を書いて欲しい。
時々悪筆に出会うとガッカリして心が萎えてしまうのは、このような思いがあるからなのです。



※トップ画像はマイ御朱印帳です。


【参考文献】
レファレンス共同データベース
日報綜合製本
神社専門メディア
御朱印めぐり.com



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