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春の雨

梅の花が咲きこぼれて、沈丁花のつぼみがふくらんでゆく。じきに咲く。
窓の外、降る雨を眺める。春を養う雨だと思う。


ときどき祖父の夢を見る。
きまって険しい顔をしている。曲がったことの嫌いな人だった。
掃き出し窓のむこう、祖父が立っていた。夢のなかでは。その姿がないことを確かめて、ベランダに出てひとり雨を眺める。


ふるさとには、春、よく雨が降った。
軒先からしたたる雨のしずくを、縁側から見ていた。雨が降っても、深い軒の張り出した田舎家だったので、窓は開けっぱなしだった。春は土のにおいが濃くなる。雨のにおいにまざって、座敷まで届いた。


野良に行かない祖母は縁側でお針仕事をする。祖父は茶の間で時代劇を見ていた。私は座敷で漫画を読む。だれもなにもしゃべらなかった。
雨のにおい。土のにおい。それが春の香りで、雨音と、古い時代の言葉、思い出したように時おり口ずさまれる祖母の歌、それが春の音だった。


うすぐらい田舎家ですごした時間のなかで、春の雨が降るその三人の沈黙を、大人になってからふと思い出すことがある。
だれひとり、楽しそうでもなかった。押し黙った空気のなか、たまにこぼれてくる祖母の歌も、軽快さはなかった。淡々とした雨音のような。
でもそれこそが、私にとって人が生きる姿、という気がする。
そのうすぐらさと静けさに、養われて育ったと思う。
 


もともと寡黙だったのに晩年は耳が遠くなって祖父はさらに言葉少なになった。訛りがつよくて理解できないことも多かった。私もしいて会話をしなかった。ただそばにいただけだ。祖母とも。

雨音だけが満ちるような時間をたくさん経て、私は家を出て、ふたりは亡くなった。
襖ごしに聞いた祖父の、「八十年なんて造作ねえな」という、人生を振り返ってこぼされた最晩年の言葉をよく憶えている。長い沈黙の養った言葉だった。



 
雨をうけて、春の花が咲きはじめる。
ベランダのむこう、ここにない土のにおいを遠く探す。ときどき祖父のことを思う。どれだけ沈黙と雨を重ねたのだろう。
そして祖母を思う。そのとなりで、淡々とお針仕事をしていた。うたいながら。
だまってすごした雨の時間が私のことばをつくっている。

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