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12月のロボットさんの手について


だいぶ肌寒くなってきました。

12月も宜しくお願いします^_^

言うまでもなく、「年末のムード」というものが日に日に増してきているわけで…

今年はここ数年の中では、きっと1番、年末のムードが高まるのではないかと思います。

お仕事、家庭、お付き合い…いろいろなことを考える時期、

スケジュール、段取り、やらなきゃいけないこと…頭の中が忙しくなって、「年末ロボットさん」になりやすい時期です。

肩とウデが緊張しやすいロボットさん、

体に起こりやすいこと&思考や心に起こりやすいことは、6月のロボットさんでご紹介しました。

自分の体の感覚について考えてみると、例えば足が疲れてきたら、自然と動くスピードが落ちるし、目が疲れてきたら、目をギューッと閉じたり目頭を指で押さえたりするし、肝臓や胃が疲れてくれば、自然と、消化の悪いものを避けたい気分になります。

でも、ウデや手はどうでしょう…。

足や目や内臓と同様に、もしかしたらそれ以上に酷使している部分なのに、そんな時でも「ウデや手を休める」ということは、かなり後回しだと思います。

私の超個人的な感覚なのですが、長年セラピストをしてきて、自分自身の各パーツに対して、その人が「私自身」…と捉えているパーツと
「私の部位」…と捉えているパーツ、
大きく分けて2通りあるな…と思うのです。

全てを「私自身」として捉えている人、すべてを「私の部位」として捉えている人、顔など見える所だけを「私自身」として捉えている人、頭、首肩、胃腸など…その人が頻繁に苦痛を感じる部分だけを「私自身」としてとらえている人、他にも本当に様々な自分自身の各パーツの捉え方があります。

「私自身だ」…と捉えていればいるほど、自分がされて嫌なことはそのパーツにもしない。させない。

例えば、顔を私自身として捉えている人は、鏡をよく見て、顔色や肌も日々調子を整えていたり、頭を私自身として捉えている人は、少しの頭痛でもいち早く気付いて、できるだけ無理をしないようにしたり。

逆に、「私の部位」…として捉えていればいるほど、「私」と「私の部位」が別物のような感覚になっていたり、「私」という主に「私の部位」を従わせるような感じになってしまう気がしています。

本当は、全部が「私自身」なはずなのに。

そんな中でも、ウデ~手は、「私自身」というよりも、「私の部位」という捉え方で、酷使しやすいパーツだな…と常々思ってきました。

でも、なぜ酷使させてしまうのでしょう…。

例えば、歌手が音程を手の上げ下げで調整したり、人前で話す人が手でジェスチャーをしながら話したり、言語として「ウデの見せ所」「ウデを磨く」などの慣用句があったり…。

ウデ~手は、常に「私自身」がなりたい「私自身」になるために、自分そのものと深くつながって連動してくれるパーツ、

もっと言えば、こうなりたい…どうにかしたい…など、その時の状況を自分でコントロールしたい気持ちが強ければ強いほど、気持ちと連動して力が入ってしまうパーツ…、

さらに言えば、そのままを認めたり、受け入れたりせずに、予め持っていた価値観を最優先にして進もうとしている時に、酷使してしまうパーツ…とも言えるかもしれません。

いずれにしても「私自身」と深いつながりのあるパーツ。

そのつながりを意識せずに、ウデ~手を、単に「私の部位」として、ただただ酷使し続けてしまえば、

首肩コリ、呼吸の浅さ、姿勢の崩れ、腱鞘炎や原因不明のウデや手のシビレなどのかたちで、
「私自身」の内なる状態が表れてきてしまうのだと思います。

体を思い通りに動かせないような痛みや違和感があるのは、意識の扱い方ができていないから。体に対して失礼な向き合い方をしている可能性が高い…

以前、偶然に触れたアスリートの方のこんなお話に、ものすごくハッとしました。

私たちは日常で、あまりにも無意識に、「手が動かない」「足が使い物にならない」など自分のパーツをさも「道具」のように捉えがちですが、

ウデや手に限らず、頭の先から足の先までの全てが「私自身」。

「私の部位」とか、ましてや「道具」とかかではなく、「私自身」と体の一つ一つを深い意識でつなげよう…とした結果として、自然に体が動くことが理想なのだと思います。

「私自身」の全てを「私自身」ととらえて、大切に扱えるように…

今月は、肩とウデ~手が緊張しやすい、疲れに気付きづらい時期…なので、

肩が休まっていることが私自身が休まっていること、ウデ~手がほぐれることが私自身がほぐれること、

まずはそんな感覚から、ぜひ意識を始めてみてください(^^)








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