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親を手放すにいたるまで ー幼少期編ー

一番古い記憶

まだ景気が良かった頃。

過ごしやすい季節に
第1子として生まれた私。

母によると、
「その季節に産まれるよう逆算したんだ」とか。

(思春期にそれを聞かされた時は、
若干の気持ち悪さを感じたが)


偏食が強く、口が達者。
おませな事を言うくせ、臆病で慎重な性格。

母としては育てにくい子だったみたい。


しばらくして 妹が産まれる。

赤ちゃん特有のいい匂い。
隙があれば、いつもスンスン匂いをかいでた。

家族の関心は、私から妹へシフトしていった。

赤ちゃん返りをしていた自分を覚えている。

私専用のマグに砂糖水を入れて、
チュパチュパ寝ながら飲んでいた。

赤ちゃんになっちゃったのー
と、祖母に説明していた気がする。

祖母も笑顔で応えてくれた。


私は記憶力がいい方なのか、なんなのか。

幼い頃に体験した場面を、映像のように記憶している。

私の一番古い記憶は、まだ妹が産まれる前。

それなりに会話が成立するような年齢だったと思う。


父と母がリビングで言い争いをしていた。

子どもながらに、お金の件で喧嘩しているとわかっていた。

当時、母は主婦で、父が稼ぎ頭。
父はパチンコに行っていたようで、それを母が咎める感じだったと思う。

お決まりの台詞
「俺が稼いだ金だ!」

と、父は母に怒鳴りつけ、
TVのリモコンを母に向かって投げた。

記憶にないだけで、同じような喧嘩は何度か見ていたのかもしれない。

ただ、父が母に物を投げるのを見たのは、恐らく初めてだった と思う。

リモコンが床に落ちた音。

驚いてフリーズしたのを覚えている。

(相当びっくりしたからこそ、記憶に残ってるのかも)


記憶の中の母は、悲しい表情で立ち尽くしている。

母は父に何か言い返した。

父はそれすらも、怒鳴りつけて封じ
“この話は終わり“の雰囲気を醸した。

母は、別室に向かった。
鍵のかかる音がした。


子どもながらに、母を助けにいかねば と思ったようで

鍵のかかっている部屋のドアの前にいった。

ドアノブをガチャガチャしても、当然開かない。

ガチャガチャしてるのが私だと分かれば、
母は鍵を開けてくれるだろう と思ったような気がする。

おかあさん

と、声をかけた。


ドアは開かない。


おかあさん

と、もう一度。


中からは、母がすすり泣く声が聞こえてきた。

おかあさんが泣いてる。

その事実に衝撃を受けた。

おとうさんが おかあさんを泣かせた


悲しいのと、驚いたのと。

シンプルに言えば ガーーーン って感じ。

結局、いくら声をかけてもドアが開かれる事はなかった。
私の呼びかけに返事もなかった。


大変だ
おかあさんが泣いている

子どもながらに、焦った気がする。

自分のような子どもが泣くことはあっても、

大人が、

しかも、

まさか母が、泣くとは思ってもみなかったんだろう。


リビングに戻り、父に声をかけた。

おとうさん、おかあさん、泣いてるよ


父はこちらを向くこともなく

いいんだよ!泣かせとけば。放っとけ。


と、不機嫌そうに返してきた。

その返しにも ガーーーン となった気がする



記憶は、そこで途切れている。

  



今、思うこと


この記憶は、少なくとも30年前の出来事だと思われます。

だけど、未だに、その場面をくっきりと思い出せるのです。

私の記憶の残し方も特性があるのかもしれませんが

信頼してる親の喧嘩の場面を目撃することが、
子どもにとって、どれだけ大きい衝撃になるのか。

自分が大人になって、その影響の大きさに驚かされました。

まさかこんなに覚えているものなんだ と。


当時は、明確には虐待と定義されてなかったけど、

今の時代であれば、

私が体験した出来事は、
面前DV、つまり被虐待体験なんですよね。


もちろん、この体験だけが、今の私を形作ってる訳ではありません。

だけど一番古い記憶 が、この記憶 っていうのは、
なんだか切ないなぁと思います。


ただ、夫婦喧嘩を全くしない というのも、
現実的ではないですよね。

親であろうと、ひとりの人間ですから。

では。

この体験をした私は、親に何を望んでいるんでしょう。

その答えは、ハッキリしてません。


だけど、あの出来事の後

誰も、私の受けた衝撃を労ってはくれなかったような気がします。

そもそも 家庭 という密室で、
あの場面を目撃したのは私一人ですから。

私が誰かに話さない限り、

あの出来事自体、存在しないものですし。


実はこの記憶、最近になって、ふと、思い出したんです。

思い出した時のTweet ↓


思うままにTweetした内容を振り返れば、

喧嘩の場面を見るか否かよりも、

その後のフォロー、つまり

労いや慰めの有無がカギなのかもしれません。

出来事の存在自体を知ってるのは
当事者である 父、母
そして目撃者の 私

この場合、当時フォローに入るべきは、
当事者である父母二人だったのかもしれません。


怖い思いをさせたね
悪かったね

お父さんとお母さん、
きちんと話し合ったから、もう大丈夫だよ


そんな言葉があったら、違う受け止めになっていたのかも。


今回は、自分自身で 当時の私を慰めました。
労いました。

そもそも、こんな親達なので、子どものフォローが出来る可能性は低いですし。




重要なのは

時間が経っていても、
心のどこかに傷ついた記憶は残ること
傷ついた体験を自分や他者から労われ、慰められる
癒しのプロセスを辿ること

なのかな、と書きながらまとまってきました。

もちろん、面前DV自体がないのに越したことはありません。



もし、この記事を読まれた方が

誰かから、過去のつらい生い立ちを語られるような場面があったら

出来る範囲で大丈夫なので

よく乗り越えてきたね

と、労ってもらえればと思います。


そういう声かけの積み重ねが、
変えられない過去を乗り越えていく道標になります。

生々しい記憶だったものが、
その人の歴史に、人生に、姿を変えていけます。


過去は変えられませんが、
つらい出来事を乗り越えて、

今、その人が存在している事が尊いはずです。


私自身がそう思えたからこそ、
完全には手放せてない葛藤について、
noteにまとめようと思いました。

加えて、現在産休中でして。

体は動かないけど
時間が有り余ってるので…( ˙-˙ )

続くかどうかはわかりません!笑

読んでいただいてありがとうございました。