見出し画像

「中流社会」の解体と、社会像の刷新――橋本健二『中流崩壊』書評

象のことを考えるな

「象のことを考えるな」の一台詞だけ、クリストファー・ノーランの映画『インセプション』を見てから数年が経った今でも覚えている。言葉が認識を形作り、認識は行動のトリガーになるという心理学的理論の正しさは、この一言を聞いて以来、折々に思い出す。

その意味で、本書は社会や政治というより心理に関する書物なのだろう。

画像1
 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022950789

橋本健二『中流崩壊』(朝日新聞出版)は、「一億総中流社会」が「象」であることを看破した社会論である(なお、本書では「象」は出てこない)。今の若者はどうか分からないが、私のような90年代生まれの人々はギリギリこの「一億総中流社会」という言葉に馴染み深い時代を過ごしたはずだ。そしてまた、「一億総中流社会は終わり、格差社会がやって来る」という主張も嫌という程耳にしてきたことだろう。

しかし、本書ではこの「世界で類を見ない一億総中流社会」のイメージがあっさりと引っ剥がされる。

そもそも「一億総中流社会」は日本特有のものではない

1935年ごろに実施されたアメリカの世論研究所・ギャラップ社の調査で、アメリカにおける自国民の階層帰属意識が初めて広く認知されることになった。階層帰属意識とは、自分がその社会の中でどの階層に所属しているかという認識のことを指す。

ギャラップ社によるアンケート調査の結果は以下の通りであった。

上流階級  6%
中流階級 88%
下流階級  6%

1935年頃の時点で、 アメリカ人の実に9割近くが自身を「中流階級」と認識していた。その後も同類の世論調査が何度も行われ、その度に約9割の国民が自身を「中流階級」だと認めたという。そして第二次世界大戦後の1959年、ジャーナリストのヴァンス・パッカードは自著の中で、ある市場調査研究所が「アメリカは『一大中産階級化』している」と発表したことについて記述している

アメリカで「一大中産階級化」という自国認識が広がった背景には、世論調査の広がりだけでなく、冷戦構造という政治的事情も存在した。反共産主義体制が、アメリカの学者に「アメリカには階級と格差がある」と主張させない強制力を発揮していたのである。

また、時代は下るが90年代のイギリスでも階級社会や格差を否定する態度がリーダー層の間に存在していた。1996年のエドワード王子の言葉を引用しよう。

「私たちは絶えず、英国には厳しい階級構造があると聞かされてきた。これはたわ言の最たるものだ。多くの場合、私たちにはかつてないほど、望むことは何でもできる機会がある。」

日本が「一億総中流社会」になるまで

そして日本においては、戦後の1960年代に「階級帰属意識」に関する世論調査が公表されたことを契機に「中流」言説が現れ始める。

1967年に公表された統計では、自分の生活程度が「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」のどれに当てはまるかについての回答データが示された。「中」に該当する選択肢が3つあることから安易に想像されるかもしれないが、「上」、「下」と答えた人はそれぞれわずか1%、8%である一方、「中」3つの回答者は計86%にも上る(残りの5%は「不明」と回答)。1970年に公表された同等の質問でも、「中」と回答した人は89%に達した。これらを根拠に、当時経済企画庁長官だった岩田幸基は、自著『現代の中流階級』(1971)で行き過ぎた結論を唱える。

日本は世界でも稀な『階級なき社会』だといわれる。イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国はもちろんのこと、一見自由平等の権化のようにみえるアメリカでさえ、人々の間には厳然とした社会階級の差別が存在している。

この主張が根拠に乏しいことは先のアメリカを省みれば明白である。しかし、ここから「世界でも稀な『階級なき社会』」という幻想が一人歩きしてゆき、今日にまで残る「階級の無い日本」、すなわち「一億総中流社会」という社会イメージを作り出すことになる。そこからの展開も非常に面白いので、ぜひ本書を手に取り確認してもらいたい。

アンケート調査のトリック

要するに「総中流社会」は日本特有の傾向ではない。では、世界の主要国が総じて「総中流化」したか?と問うと、それも否である。

さきほど少し世論調査の設問の選択肢について触れたが、帰属意識を「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」に分けてしまうと、ほとんどの人は自分の社会的位置を確信できないため、「中の上」「中の中」「中の下」を選んでしまうのである。これは国際調査で問われた「もし社会の人々が次のような5つの階級に分けられるとしたらあなたはどこに入りますか?」という質問に対して、主要13ヵ国中8ヵ国において「中の上」「中の中」「中の下」の合計回答率が90%を上回ったデータからも明らかだという(参照:1980年国際価値会議事務局『13ヵ国価値観データ・ブック』)。

本書である興味深いデータが紹介されている。1975年の調査データで、「かりに現在の日本社会全体をこの表にある3つの階級に分けるとすれば、あなた自身は、どれに属するとお考えですか。」という質問に対する回答分布である。

1.労働者階級 69.6%
2.中産階級  22.9%
3.資本家階級  5.1%
  無回答    2.3%

「一億総中流社会」が唱えられた70年代において、「中産」と自認する人はわずか2割強に留まる。勿論、「中流」と「中産」とではニュアンスが異なるが、質問の仕方を変えるだけでこれだけ大きな変化が現れるということは注目に値する。

 

以上のデータを見る限り、「一億総中流社会」という社会像は時代が作り上げた虚像に過ぎない。では、なぜ「一億総中流社会」という社会像は日本に住む人々の間に広く浸透したのか。著者は、国内外の知識人や政治家の発言を引用し、「一億総中流社会」という概念が根拠を欠いたまま政治的発言や政策の正当化に利用されてきた経緯を明らかにする。

他方で、1955~1970年の高度経済成長期、1971~1991年の安定成長期を謳歌する国民の間にも、国全体が成長しているという実感があったことから「一億総中流社会」を受け入れるムードも漂っていた。実際には富の格差が存在したが、それでも成長の期待が社会全体で共有されていたことから、成長が高止まりした「上流」でも、成長が期待できない「下流」でもなく、程よく成長しそうな「中流」という位置で自分たちを認識するようになったのだろう。

だが、「一億総中流社会」が虚像であるとはいえ、生活スタイルや所得などが「中流」に該当する層は確かに存在する。それも、上流や下流と比べて、かなりの多数である。そして本書の慧眼は、この「中流」内にある格差を浮き彫りにしたことにある。すなわち、これまで「平等」を意味する政治的レトリックであった「中流」概念が、著者による精緻な分析によって解体されるのである。橋本氏は「中流」を「旧中間階級(個人事業主など)」「新中間階級(大企業の中間管理職)」に大別した後、それぞれを職業や年齢によって世帯構成別にグループ分けし、生活水準の比較を行う。本書で行われる高解像度の分析を読み通すことで、「一億総中流社会」を基にした旧来の日本社会のイメージは刷新されるだろう。

 

しかし、本書を読み終えた今もなお、日本はやはり「一億総中流社会」なのではないか?という疑念が私の頭の片隅に残っている。「象のことは考えるな」と同じく、「一億総中流社会のことは忘れろ」と言われれば言われるほど、意識の空白地帯がこれに占領されていくような感じがする。

だからといって、「一億総中流社会」という言葉を単純に「格差社会」に置き換えれば解決する話でもない。書評家の豊崎由美氏が発案した「一億総ヤンキー化社会」のような言葉を紡ぐことができれば良いが、私自身はこの社会を一言で表現できる自分の言葉をまだ持ち合わせていない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?