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『竜とそばかすの姫』感想 雨と犠牲の物語

新宿バルト9にて観賞。公開2日目の土曜なので席があるか心配したが、朝一の回は十分余裕を持って予約することができた。

感想と批評をまとめる。以下、ネタバレ含みます。

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『竜とそばかすの姫』の物語は一言で言うなら「母の死の理由を見つける物語」となる。

本作のヒロイン「鈴」の母親は鈴が幼い時、キャンプ先の山で濁流に流されそうになった子供を助けようとして命を落とす。それを契機に、母と歌うことが大好きだった鈴は歌を歌えなくなる。

鈴の母親はなぜ自分の命を賭して他人の子供を助けたのか。その謎を解くこと、これが『竜とそばかすの姫』の物語を駆動するエンジンになる。

いきなり『竜とそばかすの姫』から離れるが、このモチーフは同監督の『おおかみこどもの雨と雪』序盤をすぐに連想させる。

狼人間の血を引く「雨」と「雪」の父親であり、主人公「花」のパートナーであった狼人間は、大雨の日に出産祝いの鳥を狩ろうとして川に流され、溺死体になった狼の姿で発見され、そのまま獣の死骸として清掃員に処理される。

この場面は単なる序盤の小噺ではなく、当作のラストシーンで息子の「雨」がその仕草を反復するように、作品全体を貫くキー場面である。

そして『竜とそばかすの姫』でも、冒頭から最後まで物語が大きく展開するあらゆるシーンにおいて”雨”や”川”がつきまとう。

母の死を回想する場面は言うまでもなく大雨の川であり、鈴が歌を歌えなくないトラウマを暗示する嘔吐シーンも川に掛かった橋の上だし、鈴(ベル)が「竜」に贈る歌を創作するのも川沿いである。父親から虐待を受ける健兄弟を救出する場面では雨が降り、ラストシーンで鈴が仲間たちの前で堂々と歌を歌い始めるのは再び川である。

映画研究者の伊藤弘了氏も語るように、細田守監督の作品に入道雲や戦争のモチーフが繰り返し現れることから細田監督が自身の過去作品を踏襲して制作する作家であることは明らかであり、川のモチーフとその反復の手つきは『おおかみこどもの雨と雪』と共通のものと言えよう。


そしてそれに加えて『竜とそばかすの姫』で特筆すべきことの一つに、ディズニーの名作『美女と野獣』を換骨奪胎していることが挙げられる。

見る人が見れば、『美女と野獣』をそのまま現代版、SF版として作った映画のように見えるかもしれない。しかし、『竜とそばかすの姫』で目指しているところは『美女と野獣』と似て非なるものだと私は見ている。

『美女と野獣』のヒロインのベルは、力強いが暴力的で、臆病な野獣(公式ではないが通称「アダム王子」)を教育する「良妻」として都合よく描かれているという批判があった。

その点、『竜とそばかすの姫』に同じ批判は全く当てはまらない。

『竜とそばかすの姫』のヒロイン・鈴は、仮想世界「U(ユー)」で歌姫「ベル(BELL)」として名を馳せる。ある日、ベルが「U」でコンサートをしている最中に、警察組織のような集団に追われたアバター「竜」が会場に乱入する。Uの世界で有名人でありながら謎に包まれた存在「竜」に興味を持ったベルは、その後、竜の正体を調べようと、あるいは心を惹かれて竜に急接近していく。

やがて竜の正体は父親に虐待を受ける少年「健」で、彼のアバターは健とともに虐待を受けていた弟を守るべく、強力な力を持ったアバター「竜」になったことが明かされる。

では、この竜(=健)にとって、ベル(=鈴)はいかなる存在か。

ベルはこの悪名高い乱暴な竜に肩入れして、面倒を見たり、教育したりする「良妻」的存在ではなく、竜のそばに立つことで、ともに両者が追い込まれた現状を打破しようと足掻くパートナー的存在として描かれる。

健は、虐待から逃れるべく世界に向けて救難信号を発信する。
鈴は、トラウマ(理由の解らない母の死)を自分の中で消化/昇華しようとする。

こうした登場人物の思惑がラストシーンに向かって収束していく。

単純な恋物語ではなく、社会的包摂からの排除や、天災などの暴力とトラウマにどう立ち向かうか、それを描くのが『竜とそばかすの姫』であり、そこが『美女と野獣』と異なる点である。

では、彼女はどのように困難に立ち向かうのか。

それは、インフルエンサーのように世界に働きかけることができる(かのような)完璧な分身であるアバター「ベル」を犠牲にして、一握りの人間を助けることを選択することによってである。

歌姫〈ベル〉として豪華絢爛な壮大なスペクタクルに囲まれ、フォロワーが何億といたところで世界は変わらないし、地方の小さなバス路線の廃線も止められない。しかし、その壮大な虚構を犠牲にしてでも、生を救うことにはそれだけの価値がある。この思いが鈴の中に芽生えた時、映画はクライマックスに向けて急加速する。

その価値は世界や他人にとっての価値ではなく、自らにとっての価値であることが重要だ。なぜなら、これこそが母が身命を賭して子供を救った理由を与えてくれるものであり、人前で歌えなくなったトラウマを克服する突破点となるからだ

そして鈴は犠牲を払うことを選び、変化し、前に進むことを選ぶ。

フォロワーが増えても人前で歌えない〈鈴/ベル〉から、フォロワーなど意に介すことなく人前で堂々と歌える〈鈴=ベル〉へと変化する。

この変化には男性だからとか女性だからという違いはない。つまり、『美女と野獣』に宛てられたジェンダー論的批判は本作にはまったく当てはまらない。

鈴の母親については作品中でほとんど語られることがない。それゆえ彼女の死は謎として残ってしまった。実際、彼女の本心は誰にも分かることはないだろう。だから、それは受け止める側が自ら納得する解を自ら持たねばならない。

鈴はその解を、雨の中で健と弟を抱きしめ庇いながら、顔から血を流しつつ健の父親に対峙しながら見出したのではないか。

母の死の反復、他者との特別な関係の誕生、一人の人間の成長。

これらが重なり合うことであのクライマックスは多層的な意味のレイヤーを持ち、我々観客の心を揉みくちゃに震わせる。

物語ばかりに語りが偏ったが、映像も素晴らしいことは言うまでもない。
むしろこの映像があることで、物語が生きていると私は考える。

『竜とそばかすの姫』、ぜひ映画館でご観賞を。

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