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いつも傍らに編集者がいたからこそ、今の私がある。

文章でお金をもらう「ライター」になってから5年が経ったが、書けば書くほど自分の文章の下手さに泣きたくなるのは変わらない。

私が考える「上手な文章」とは、次のような条件を満たす文章だ。

・言葉の選び方が的確で読む人にわかりやすい文章
・文字通りの美文麗文
・しっかりとした骨組み(構成)が組まれている文章
・内容が非常に充実している文章
・ぐいぐい読ませる要素がたっぷりの面白い文章
・心にずしんと響く印象深い文章

……などなど。

仮にもプロライターなのに情けない話だが、自分が書く文章はいまだに以上のどれにも当てはまらないと感じている。

昔から、私が書く文章はどこか粗削りで泥臭く、非常にぶきっちょな印象だ。

素人としては30年以上、プロとしては5年文章を書き続けているが、どれほど書いても泥臭さが抜けない。いくら書いても洗練された文章が書けないのが大きな悩みだ。

文章を書く際は必ず平易な言葉を選び、「わかりやすい文章」を心がけている。その努力が実り、最近はプロとしてギリギリ及第点の記事が書けるようになったとは思う。

しかし、何年たっても洗練された文章が書けない、どれほど書いても泥臭さが抜けないのはどういうことだろうか。

ついでに言えば読者をひきつける面白さにも欠けているような気がする。それが目下の課題となっている。それを考えると、テーマの発案から記事のアップデートまでの全てを自分で担うブロガーは自分に向かないな~と思う。

そんな私がライターをやっていられるのはひとえに編集者のおかげだ。いつも傍らに私をサポートしてくれる編集者がいたからこそ、今の私がある。と断言できる。

べつに編集者に媚びているわけではない。それはまぎれもない事実だというしかない。ライター歴が長くなればなるほど、編集者なしにライターの仕事は成り立たないことを痛感している。

編集者の仕事は驚くほど多岐にわたる。

企画の立案やテーマの選定、ライターの選定、ライターへのアサイン、記事の校正校閲、メディアへの掲載準備などが主な仕事だが、自ら記事を書く、あるいはライター等への報酬の管理などの仕事も兼ねる人も多い。

そんなマルチタスクな仕事を一手に担えるだけでもミラクルだが、さらに驚かされるのは文章や言葉のプロとしてのレベルの高さだ。

修正依頼が来れば、自分では全く気づかなかった問題点に気づかされるし、校正・校閲を経て公開された記事が、内容はそのままなのにより洗練されて深みが増した魅力的な文章に変わっている。まるで庶民の娘がお姫様に変身したかのような錯覚を覚えるほどに。

そんな編集者のプロフェッショナルな仕事ぶりを見ると、ライターの私はただただ感服させられるのだ。

プロライターになってから5年間、そんなすごい編集者たちとタッグを組む機会に数多く恵まれたのは非常にラッキーだと思う。(モラルや法律的な面で首をかしげる編集者もいたがごく少数だった)

彼らとの仕事を通して無駄だと感じたことは何一つない。全てが私にとって大きな学びになっている。

そんな学びを経て、私の文章は以前よりは若干洗練されてきた……と思う。

とはいえ、まだまだ、まだまだだ。粗削りで泥臭いところはまだまだ残っており、文章のリズムもまだ乱れている。テンポよく読めてすうっと入るような洗練された文章への道はまだまだ遠い。

そのあたりは今後次第に改良していくしかないが、その際にお世話になるのもやはり編集者となるだろう。

時に厳しい修正依頼が来てへこむこともあるが、それで文章の洗練度や深みが増すことは間違いない。今後も容赦なく鍛えてもらう心づもりで、腹を据えてやっていこう。


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