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死ぬことについて考えた日

イラストレーターの千砂です。
タイトルが穏やかではないですが、先に結論を言うと後ろ向きな表現ではないです。
そこは一応安心して下さい。しかし、浅い階層にいるとは言え自殺願望者であることも間違いないではないのが自己分析による結論です。

ここからの内容は私なりに【死ぬこと】に対してどう付き合っていくのか、それを考えることにより何の意味があるのかを導き出したものとなっております。
主に今回は“自殺”に焦点を当てています。
普段のイラスト関連の記事と異なるので本当に気になった方のみお読み下さい。文章は苦手なのでとてもとても読みにくいですが、どうか御許し下さいませ。

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死にたくなった理由の分析

私の場合デュルケームの【自殺論】における
「自己本位的自殺」
「アノミー的自殺」
に該当するものだと思います。

「自己本位的自殺」
私自身は家族や友人に恵まれておりますので実際は集団・コミュニティにおける孤独感に苛まれる事は本来無い筈なのですが、自身の秘めたる想いを明かす密接な繋がりが無いのです。それを打ち明ける事はここで言う“真の孤独”を得る結果に繋がると確信しております。そうなれば必然的に自殺の選択肢を選ぶのだと思います。そうさせない為に自身を偽りキャラクターを演じる事で表面的には平静を保っているのです。反面中身は孤独感が募り続ける事になります。

「アノミー的自殺」
ここ1年余りにおける世界的なコロナ禍により膨大で空虚な“時間”を望まぬ形で得ることになりました。私は今まで自身を誤魔化すように睡眠時間を割いてまで仕事ばかりしておりました。勿論リソースを確保する為でもあり且つ現実から目を背ける役割も担っていました。しかし、予期せぬ形で少しばかりの自由を得てしまうと、こういった記事でまとめる様に今まで見て見ぬ振りをしていた事について考える“自由時間”が生まれました。解釈を間違っているかもしれませんが、アノミーとは言うなれば理想と現実のギャップだと思ってます。仕事がなくなった分、自分の時間が出来た事は最初の内は良かったと思いました。それにより今まで出来なかった事をする、満たされると新たな欲望が生まれてくる、しかしそれを叶える為のリソースがないので押し殺してきた絶望や空虚感が生まれてしまうのです。そうなってからいとも簡単に心は壊れていきましたね。

真の孤独者ではないですが、心を全て晒け出せる人はいません。世間に溢れる人間の価値基準がリソース力であるので、そのレースに勝つことは出来ません。

ざっくり言うと私は【無価値の精神的孤独者】と言った感じではないでしょうか。
“死にたい”と言うよりは“生きている意味を見出だせない”と言った方が正しいと思います。


分析後の考え方

このままでは本当に何らかの形で自殺を図ると思いました。しかしどう抗おうと急展開が起きる訳では無いので、自殺もとい死ぬ事について考えるのは脳裏に焼き付いて消えません。
ですので、いっそのこと死ぬことを“目標地点”と捉えました。人間における唯一の平等点は命が一つだけであること。つまり死も平等に訪れると言うこと。
それだけだとよくある安っぽい自己啓発本にありそうな腐れ文言ですが、それを前提としても“自分がどう死ぬか”は自由です。どう生きたいかではなくどう死にたいか、です。
どう生きたいか…と考えると理想像とのギャップに押し潰され先述の「アノミー的自殺」に直結するのではないかと思います。
どう死にたいか…だとやや語弊がありますね。訂正です。つまりは毎日が人生最後の日だと思えば良いのですね。いつ死んでも構わないと考えて、後ろを振り返らず目先の壁を全力で壊す、明日の事は考えなくて良い、今日死ぬかもしれないのですから。
しかし私は“どう死ぬ”のだろう。四畳半の西日の射さないボロアパートで誰にも見届けられずに死ぬのでしょうか。そもそも自殺なのか他殺なのか病気なのか事故なのか…死ぬ直前何を思っているのだろうか。悲しんでくれる人はいるのだろうか。最期の自分はどんな人間なのだろうか。
考えるとワクワクしてくるんです。可笑しい話ですよ。自分が死ぬって話なのに。

【無価値の精神的孤独者】と称しましたが、これを覆す方法はいくら考えても見つかりませんでした。
と言うより、それを認めてこそなのだと思います。
無価値であることも、精神的孤独を抱え続けるのも、これまでの自身が積み上げた“業”のようなものです。
否定してしまうと、それこそ自殺に繋がりかねないと。



毎日隣に死神がいる

今までの考えをそうそう簡単に捨て去る事は出来ません。死ぬ事について、自殺について、どう死にたいかについて考えるといつの間にか自分の隣に死神が見えてきました。恐らく病んでるのでしょうね。病む必要なんて一切ないのですが。
先述の通り、人間は平等に死を迎えます。不慮の事故や殺人は予期せぬ事であるとよく言われますが、これは集団における心理ではないかと思います。パラレルワールド否定派の私は、どのように人生の終わり迎えようとそれは必然であってその人の物語は最初から決まっていたんですね。無慈悲ですが。
死神は安寧の案内人、詳しい事は何も教えてくれませんが、少なくともまだ死ぬときではないようです。



まとめ

ざっくりと言うと
今の自分にとって“死”と向き合うことはとても重要であったと思います。どれだけ考えても死にたい感情は消え去りません。だからこそじっくり向き合う時間が必要だったのです。結局現状は何も変わらず悪化の一途を辿ってはいます。
しかし“どう生きたいか”による理想像の膨張によって押し潰され絶望の内に絶命する、という最悪のケースを“どう死にたいか”を考えることで回避したのではないかと思います。

この先どうなるかなんて隣にいる死神以外誰にも分かりません。もしかしたら明日物語が終わるかもしれません。でもそうなったとしても後悔はありません。毎日を死力を尽くして生きるのですから死なない方が可笑しいんですよね。

人生は別に面白いものではないです。
ですがせめていつ死んでも良いように心構えはしておくべきかもしれないですね。


もしこんな支離滅裂で拙い文章を最後までお読みお読み頂いた方がいらっしゃるのであれば、心よりお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

千砂

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