角川短歌賞・短歌研究新人賞(後半)【再録・青磁社週刊時評第六十九回2009.11.2.】 

角川短歌賞・短歌研究新人賞(後半)  川本千栄


 両賞の選考座談会を読んで、「角川短歌賞」が「短歌研究新人賞」に比して良いと思われる点は、各応募作について議論した後、受賞作を決定する過程が活字化されていることである。「短歌研究新人賞」では、各応募作について論じた後はもう選考後の講評に入っており、選考と決定の過程が分からない。作者ならずとも、どこが決定のポイントかという事は知りたいはずである。ここの透明性は「短歌研究新人賞」にも欲しいと思った。
 また、「短歌研究新人賞」候補作の中にはかなり実験的なものもあり、選考委員の選評を読んでも良さがよく分からないものもあった。例えば「南北の極ありて東西の極なき星で煙草吸える少女の腋臭甘く」(フラワーしげる)といった歌を含む一連を、加藤治郎は「モチーフの深さ、メタファーの深度は群を抜いている」「非定型の問題、自由律の問題の提示」として一位に推していた。掲出歌に対しても、「もともと東西というイデオロギーは世界にはなくて、南北という貧富の差のみがある」「硬直した世界はこういった(下句の)官能性によって流動していくというのがこの歌のモチーフ」と説明していたが、他の選考委員達の賛同は得られず、「読みすぎ」(佐佐木幸綱)、「そんな思想性があるとは思わなかった」(栗木京子)、「単純に南極、北極はあるけど東極と西極はないというような」(穂村弘)などの意見が出ていた。また非定型・韻律の問題に対しても「必然性があまりないような気がして」(栗木)、「新しい試み、挑戦という感じは持ちませんでした」(佐佐木)と否定的であった。
私の印象としては、加藤は歌としての良し悪し以前に、理論的な問題提起があるかどうかで推しているように取れた。もしそうだとしたら、推薦の仕方に疑問を感じる。新人賞の持つ影響は大きい。問題提起があるということが優先されれば、短歌の評価で何が大切かということに混乱を招くことになるのではないか。
 とは言え、現実問題として、賞の選考委員はそれぞれ様々な価値観で候補作品を審査しているのだ。私たち読む立場の者は、どの選考委員がどのような基準で選んでいるのかを注視していく必要があるのではないかと思った。

(了 第六十九回2009年11月2日分)

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