高齢歌人の「私性」について(後半)【再録・青磁社週刊時評第六十三回2009.9.14.】   

高齢歌人の「私性」について(後半)    川本千栄

 また、年を取って却って「私性」が明確になるという論もある。例えば、『歌壇』の特集において宮原望子が「高齢者層には、意外にユーモラスな歌が多い。(…)加齢によって身動きがぎこちなくなったり、物忘れがふえて日常生活にへまが多くなったり、それを歌うとおのずから笑える歌になるというのが第一の理由かと思うが、更に考えられるのは、(…)そういう己れを鼓舞したいという心だろう。日々に衰えてくる自分を曝け出すのは、みじめでみっともないことのようでさにあらず、それができるのは、一段高い所にもう一人、冷静な客観のできる自分がいるということである」と書いている。現象の認識は小高と同じだが、結論は正反対である。高齢化により身体の自由が利かなくなった自分を詠んでユーモアのある歌を作るが、それができるのは客観的な自分がしっかりしているからだ、というのである。
 小林幸子清水房雄の「このままに醒めざる明日の朝あらば安らならむと独り笑ひせり」の歌を引いて〈夜の眠りについて覚めぬまま逝けたらと思うのはおおかたの高齢者の願いであろう。だが歌集巻末に置かれたこの一首の「独り笑ひせり」という結句にはしたたかな自己凝視がある。反転して、死を思うより一日一日の生を生き切るという意思表示になっているのではあるまいか〉と述べている。これも「私性の朧化」とは反対の考え方だと言えよう。
 ただし、どちらか一方の考え方のみが当てはまるわけではなく、高齢歌人の私性の問題にはこれら両面があると取った方がいいのだろう。その上で、これからもたくさん作られるであろう高齢歌人の歌を読んで、「私性」のあり方などを見ていきたいと思う。
 このように、高齢歌人の「私性」の変容は、小高によって提唱されたばかりであるし、まだ今後さまざまな角度から検証していかなければならない論だろう。前回の松村由利子の週刊時評では、若者の「私性」の問題と同列に並べられていたが、それは少し無理があると思ったのだった。

(*現在、松村由利子氏の週刊時評は読むことができませんが、連載当時の記載のまま再録しています。)

(了 第六十三回2009年9月14日分)


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