高齢歌人の「私性」について(前半)【再録・青磁社週刊時評第六十三回2009.9.14.】 

高齢歌人の「私性」について(前半)      川本千栄

(青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)
 九月七日付けの松村由利子(歌人の敬称は略す)の週刊時評〈「われ」の変容の背景〉で取り上げられていた『短歌現代』9月号の「老いという短歌のフロンティア」(小高賢)を読んだ。『歌壇』9月号の特集も「高齢社会、シニア歌人の開く新しい歌の世界」であり、少し前だが、角川『短歌』6月号の特集も「今日における人生と境涯の歌い方」というものであった。高齢者の歌に今注目が集まっているのは間違いない。少子高齢化社会と言われる社会状況の中で、近年短歌の世界においても、歌人の平均年齢の上昇や若者の短歌人口の減少など、「老い」は切実な問題となっているという事ができるだろう。
 『短歌現代』の特集「来(きた)るべき短歌(うた)」でも、短歌の未来に対してかなり暗い見通しを展開している論が多かった。その中で小高は老いの歌の可能性に焦点を当てて、少し明るい展望を持っている。
 小高は、老いて身体の自由が利かなくなることによって、〈しっかりとガードされた「私性」が、ほぐれ、外側に流出する。あるいはせざるを得ない感じがする〉と述べ、それを説明するために岡部桂一郎清水房雄の近作を挙げている。何首か例を挙げた後、〈岡部における「私性」の朧化、清水における「私性」の軽さ。いずれも、短歌の新しい方向を示しているし、既成の作品構造にゆさぶりをかけている〉とまとめている。  
 私自身は、歌人の高齢化に関しては、定型意識の弛緩や作歌数の減少など、これまで否定的な方向で考えることが多かった。そのため、小高の説は斬新で面白く、読み応えがあった。老いの歌の可能性を探る上で、なるほどその方向があったか、という驚きを感じた。赤瀬川原平の『老人力』にも匹敵する、逆転の発想である。
 ただ、高齢化による身体の不如意と「私性」のあり方の変化は、そう簡単に相関関係があるとは言い切れないと思う。むしろ長い年月を暮らしてきて、心のあり方が変わったとか、意識して作風を変えたということもあるだろう。『歌壇』の特集では大辻隆弘外塚喬が盛んに「自在」と言う言葉を使っていたが、高齢歌人たちは、長年蓄積してきた様々な技法や文体を、歌に応じて使い分けながら自由自在に詠んでいるというのである。これは「私性」の朧化ではなく、取捨選択の結果だという解釈だろう。

(続く)

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