大雑把な若者観(後半)【再録・青磁社週刊時評第六十回2009.8.24.】

大雑把な若者観(後半)          川本千栄

 確かに若者の自然詠に関してはそういう側面もあるだろう。しかし、それを若者全体に当てはめるのは少し大雑把過ぎるように思う。例えば同じ『短歌往来』の8月号は「ネット社会の新人たち」というタイトルであったが、体感を伴いながら、自然を詠んだ歌をいくつも見かける。
   放射状に葉を広げいる椰子の木の蔭に抱きつくように涼まん  
                            齋藤芳生
   この草は青菅だろう寒菅にくらべてつよく鋭い葉先  五島諭
   石庭の苔やはらかく雨に濡れ告げてはならぬことひとつあり  
                            田口綾子

 同じ世代の作品でもより広く探せば、さらにもう少し上の世代の作品を探せば、もっと見つかるだろう。それに、現代人にとって自然が現象や記号であるというのは、若い人だけの問題でもないように思う。世代の問題であると共に時代の問題でもあるのだ。こうした疑問が頭に浮かぶので、対談にのめりこんで読むことがなかなか出来なかった。
 考えてみれば最近、若者ではない人が主観的な若者観を述べるのを読むことが何度かあった。例えば、『歌壇』7月号の坂井修一による「窪田空穂の蘇生」という評論の中に、次のような一節があった。
 
 たしかに最近の若い短歌作者たちの多くは、「全人格的」ということなどハナから念頭にないように見える。ゆたかな感情生活や人格の陶冶など夢のまた夢のようだ。物質文明はいきつくところまでいっている。その上で、若者に還元される物質的な富はわずかである。その結果、人生設計どころか明日の生活も不透明となった。人格云々を考える余裕などどこにもないと言う。

 若い短歌作者は本当に人格には何の関心も無いのだろうか。もちろん「坂井修一がそう思った」のだろうが、それがまるで既成の事実であるかのように書かれていることに違和感を覚える。上の世代の、大雑把なイメージとしての若者像は少し脇に置いて、実際に若い世代自身の、社会や自然や人生に対する考えを、歌なり論なりで読みたいと最近よく思うのである。

(了 第六十回2009年8月24日分)

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