歌集批評会に思う(後半)【再録・青磁社週刊時評第七十五回2009.12.14.】

歌集批評会に思う(後半)        川本千栄


 基本的には指名されて発言していたのだが、度々反論や疑義が提出され、自由に意見が交換された。会場の活発な議論に触発されてか、オブザーバーの岡井隆も、一章を使って歌われている「寡婦」の表すものは何か、と論点を提示してきた。
 これら全ては大いに知的好奇心を刺激してくれた。こうした議論が引き起こされるのは中島の短歌が良くも悪くも多くの論点を含んでいるからだろう。また、自由闊達な雰囲気で議論が行われ、好きな時に発言できる少人数の環境も、会を活発にしていたと思う。
 しかし多くの歌集の批評会は常にこうした雰囲気で行われるわけではない。これまで参加した批評会でも終了後、何となく不完全燃焼感を持つこともあった。どうしてそんな気持になってしまうのか。私が一番に思いつくのは、出席者が発言を求められ指名される時に、結社内外での知名度などによって、司会者側で発言の順番が予め決められているという点だ。指名されていない時には、決まった手順を乱してはいけないように感じてしまい、甚だ発言しにくい。そのため、「ただ聞くだけ」になってしまい、物足りなく感じてしまうのだろう。今回のように盛んな議論になれば、聞くだけでも充分楽しめる。様々な意見を並列するだけでなく、戦わせることによって見えてくる新たな視点があると思うのだ。
 以前よく、同じ結社の仲間と勉強会をした。5~6人が一冊の歌集を各自で読んで、それぞれがレジュメを作って発表し合い、質問し、討論したものだった。その過程を経て、読んだ歌集が本当に血肉化されたように思えた。私が歌集批評会に求めているのはそれなのかも知れない。
 パネラーが前に座り、出席者がスクール形式で前を向く座り方ではなく、狭い部屋でロの字型や回の字型に座り、パネラーも他の出席者もお互いの顔を見ながら、指名を待たずにどんどんしゃべるような批評会が望ましいと思う。時には論争になってもいい。本当にその歌集に色々と話し合いたい点を感じているなら論争も起こるだろう。人数は30人前後が限界ではないか。それ以上になるとどうしても授業のような、話者が遠いような印象をもってしまうと思うのだ。

(了 第七十五回2009年12月14日分)

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