〔公開記事〕『歌壇』22年12月号「年間時評 歌集が本屋で売られるということ」(前半)

「歌集が本屋で売られるということ」(前半)

 本当に一握りの売れる歌集以外は、長らく歌集歌書は著者が自費出版し、それを寄贈する、されるという方法でのみ流通してきた。自費出版した本を著者が買い取り、名簿を入手し、寄贈する。あるいは出版社に依頼して代送で寄贈してもらう。
 寄贈文化とは、長い目で見た物々交換である。ある日知り合いの歌人から歌集を寄贈される。自分が歌集を出版したらその人に寄贈する。あるいは先に自分が寄贈したことにより、相手からも寄贈される。一度寄贈の物々交換の輪に入り、自分も寄贈を続けていると、寄贈され続けることが多い。
 自費出版であるから、出版社的には、著者が本を買い取った時点で、収入は保証される。そのため、出版社は書店に歌集を積極的に売り込まないというのがこれまでの慣例だった。著者が自分の買い取った歌集を大体寄贈し終えたら、その歌集は再版されることはほぼ無い。いわゆる絶版であり、そうなると入手は困難になる。
 歌集歌書はこのように一般の人からは見えないところで流通している。もちろん、短歌総合誌には歌集の宣伝が載っているし、出版社に注文すれば、本を入手することはできる。しかし、短歌総合誌自体が、書店で売っていることが少なく、大抵は年間購読などの、これも閉じた輪の中で流通しているものだ。同様に出版社も歌集等詩歌を専門に扱っているところが多い。
 最近は、出版社が自社のネットショップで歌集を売っている場合もあるし、アマゾンに歌集を出品している場合もある。ここ数年、著者自身がネット上の物販サイトで売るということも出来るようになった。しかし、ネットでの販売はその歌集の存在を知っていて注文しているという意味では、購買者も短歌の世界に属しており、閉じた輪の中での流通である。短歌作者ではない一般の読者と、歌集との偶然の出会いである場合は少ない。
 このように閉じられた輪の中でのみ流通してきた歌集歌書にここ数年変化が起こっている。歌集歌書が本屋で売られるようになってきたのだ。本屋で大々的に置かれることにより、短歌の世界に属していない、一般の読者が偶然の出会いとして歌集を手に取る可能性が高まった。ツイッターで紀伊國屋書店など大型書店の詩歌コーナーのディスプレイを見ると確かに歌集歌書が本屋で売られていることを確認することができる。『短歌研究』は、盛んに「短歌ブーム」という言葉を発しているし、新聞や、場合によってはファッション雑誌に歌集が紹介されているのを見かけるようにもなった。
 この流れを作った一つは、出版社の書肆侃侃房だろう。自費出版でペイすることによって一般の本屋に売らない、という歌集歌書の出版の常識を破って、書肆侃侃房は、一般の人が行く、普通の本屋に歌集を置くよう営業してきた。二〇〇二年に設立された同社はまず笹井宏之の歌集をヒットさせ、次に新鋭歌人シリーズという新人発掘のシリーズを刊行した。作者が自分の作品三十首で応募したものを加藤治郎や東直子といった歌人が選んで発行するものだ。第一期、十二冊であったシリーズは二〇二二年現在、第五期六十冊を数えるまでになっている。
 中堅・ベテランの歌人たちを対象とした、同社の「現代歌人シリーズ」の、吉川宏志『石蓮花』が第70回芸術選奨文部科学大臣賞・第31回斎藤茂吉短歌文学賞受賞、大口玲子『自由』が第48回日本歌人クラブ賞受賞など、歌壇の有力な賞を受賞したこともあり、短歌出版の世界で書肆侃侃房は一定の地位を占めるようになった。
 歌集は本屋で売られるものになり、実際に売れるという事が分かると、そこに二〇〇五年創立の左右社や二〇〇八年創立のナナロク社など、歌集出版の世界では新しい出版社も参入してきた。扱っている歌人は枡野浩一、岡野大嗣、木下龍也等、歌壇以外にも知名度の高い歌人たちである。
 このように歌集出版では歴史の新しい出版社が一般の読者に売れる、魅力的なコンテンツを以て業界に参入してきた。これらの出版社は歌集歌書のみを手掛けているわけではなく、他ジャンルの出版を扱っており「売る」技術に長けている。従来からの、自費出版本を本屋に売らない方向性を貫いてきたいわゆる老舗の出版社はどのように対応しているだろう。
 まず起こった変化は歌集の小型化、軽量化、低価格化である。筆者が短歌を始めた二十年前はA5判か四六判のハードカバーが一般的で、価格帯も一冊二五〇〇円から三〇〇〇円程度が多かった。箱入り、天金などの豪華本もよく見かけた。それが二十年後の現在、主流は四六判のソフトカバーとなった。価格帯も二〇〇〇円前後にまで下がった。歌集は、かなり手に取りやすいものになってきたのだ。
 しかし、まだ旧来の出版社の歌集が本屋に並んでいるとは言い難い。従来からある出版社が、新しく参入してきた出版社に「売る」ことを任せて、相変わらず寄贈文化の中でのみ本を作っていくのか、あるいは本屋に働きかけて自社の出版する歌集を本屋に並べるのか、ネットにより販路を拓くのか。少しずつ、本屋にネットに販路を求めている動きもあるが、まだ数は少ない。
 このままでは益々多くの歌人が営業に熱心な出版社から歌集を出そうとするだろう。寄贈するのみでなく、「売りたい」という思いは誰にでもあるはずだ。その場合懸念されることがある。
 本屋のスペースは有限であり、出版された全ての本を並べるわけにはいかない、ということだ。出版社なり本屋なりで然るべき「選別」が行われ、いつ行っても本屋に並んでいる本と、出版されてしばらくは本屋に置かれてもすぐ置かれなくなる本、あるいは全く最初から本屋に置かれない本に分かれてくるだろう。資本主義の立場から考えれば当たり前のことだ。すぐ置かれなくなる本、あるいは全く置かれない本は、要は従来の自費出版と同じ扱いということになる。ネットショップの画面には並ぶが一般の読者が手に取るであろう本屋の書棚には置かれない。寄贈文化の輪の中でのみ流通することを前提に出版される。つまり、「短歌ブーム」と言っても、この論の冒頭に書いた「ほんの一握りの売れる歌集」の幅がある程度広がったというに過ぎない。
 寄贈が年々難しくなってきているのも大きな問題だ。『短歌研究』が毎年十二月号として出している『短歌研究年鑑』記載の歌人名簿に、詳しい住所を載せない方針にしたのは二〇二〇年からのことだ。今手元にある二〇二一年版の『年鑑』は二年目ということになる。同時期に発行される角川『短歌』の『短歌年鑑』は従来通り、歌人の住所が載っている。しかし、それがいつまで続くかは分からない。
 個人情報保護の観点から見れば、市販されている冊子に個人の住所を載せないというのは全く正論だ。しかしその方向性は歌集の寄贈文化とは相容れないものだ。
 次第に、自分が歌集歌書を出した出版社に依頼して代送してもらう形しか、寄贈は出来なくなるだろう。それにはもちろん手数料がかかる。ただでさえ、多額のお金がかかる自費出版に更なる支出が足されることになり、金銭的なハードルは益々上がるだろう。
 また、出版社から寄贈しようとしても、住所を明らかにしないことによって、寄贈される歌人とされない歌人が分離してしまい、それぞれの持つ短歌の世界の全体像が全く異なってしまう懸念は、もはや現実のものとなりつつある。
 今後、出版文化が主流になって、出版社が「売れる本しか出さない」方針になったら、「一般の読者にも売れる」作者しか本が出せなくなる可能性がある。寄贈する金額はなかなか用意出来ない、出版社が自分を売れる作者と認めて歌集を出してくれるわけでもない、運があるわけでも自己宣伝が上手いわけでもない、というのが大多数の作者の立ち位置となった時、短歌というジャンルは「短歌ブーム」の掛け声とは反対に、衰退するのではないだろうか。
 逆に言えば、寄贈が歌集歌書入手の主流ということは、何とかして自費出版の金額を調達できれば誰でも本が出せるという、公平性も担保していたということだ。
 しかし一体この、ある程度の金額を用意できれば、誰でも本が出せるという流れはいつ頃から始まったのか。
 明治・大正の歌集は一握りの作者のみが出していた。与謝野晶子『みだれ髪』も斎藤茂吉『赤光』も北原白秋『桐の花』も全て、読者は買って読んでいたはずだ。現在の一握りの作者と一般の読者の関係に近い。そうした結社の選者クラスの歌人で無い場合はお金さえ貯めれば誰でも歌集を出せる訳ではなく、師匠格、先輩格の歌人たちに認めてもらえなければ歌集が出せない時代が長く続いていた。そうした無言の制約が緩み、誰でもお金を貯めて歌集を出し、それを寄贈し合うようになったのはいつ頃からか。寄贈文化と出版文化のせめぎ合いを考えるなら、そちらも考察しなければならないだろう。
 今後歌人は誰もが一作者として、こうしたせめぎ合いを見守りながら、自分の本を出していくしかない。
(続く)


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