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『短歌研究』2022年10月号(1)

ある瞬間一生(ひとよ)が見えて死ぬといふその瞬間に会はず生き継ぐ 高野公彦 走馬灯のように…とよく聞くあの現象だろうか。それを見たら死ぬのなら、生きている限り見ないのは道理なのだが、なぜか心に残る歌。それを近々見そうな恐れが作者にあるからかも知れない。

白きうつは落ちゆけるのち毀るれば部分となりて何をも容れず 高木佳子 白い容器が落ちて割れた。割れた後は容器ではなく部分となり、何か物を容れることはもうない。当たり前の事実を詠んだようでいて、壊れてしまった人の心を言っているようにも読める。

③「現代短歌評論賞発表」桑原憂太郎「口語短歌による表現技法の進展~三つの様式化」すごく面白い論だった。口語短歌の始まりを一九八〇年代後半から九〇年代初頭としているところは、私の考えと違うのだが、それは置いて、三つの様式化のところがすごく冴えている。
〈1 動詞の終止形の活用 「た」によらない文末処理としては、どのような処理の仕方があるか。というと、その一つとして、過去にしないで終わらせる、すなわち、動詞を「ル形」(終止形)でおさめるという技法をあげることができる。(…)「ル形」を多用することで、それぞれの状況を並べて時間の経過を表すという、動画的とでもいえる叙述を新たに韻詩に持ち込んでいる(…)〉「ル形」でおさめる技法を、日本語の用法としては「誤用」としながら、短歌の中では違和感が無い理由を分析しているところが読ませる。こうした日本語文法の援用は今後必須だろう。

④桑原憂太郎〈2 終助詞の活用 終助詞の一音を変えるだけで、〈主体〉の性別や性格といったキャラクターづけ、あるいは、独り言なのか相手に発している発話なのか、発話であれば、その相手との関係性(…)といったところまで表せるのだ。これは文語では成し得ないことだった。〉
口語と文語では、終助詞といっても、その様態は大きく異なっており、さらに、口語にとっては、こうした終助詞の活用が、口語ならではの豊かな表現を可能にしているともいえるのである。〉これは本当に重要な指摘だ。今まで文語口語の違いにおいて、「時制を表す助動詞が文語に比べて口語は乏しい」というように、「減ったもの」にしか焦点が当たっていなかった。しかし、古人に比べて現代人の感性そのものが減ったわけではないから、口語ならではの豊かな表現が絶対にあるはずだ。桑原のようにそれを適切に指摘した文章が今まで無かっただけだろう。

⑤桑原憂太郎〈3 モダリティの活用 口語短歌の文末処理の解決策の三つ目として、作品を、独り言や他者への発話といった話し言葉で叙述する、という方策がある。(…)独り言や他者への発話といった話し言葉の文末は、話し手の判断や態度を表していることが多い。この話し手の判断や態度の部分を「モダリティ」という。(…)文末に「モダリティ」がやたらとくっついているのが、日本語の話し言葉の特徴だ。(…)文末にモダリティが多用されたことで、調べもまた独特なうねりを醸し出しており、〈主体〉の屈折した感情を調べでも表している(…)〉
 文語の助動詞に比べて口語の助動詞が減ったのなら、その分、何かが増えているはずなのだ。使わないから減ったのは、それ以外にもっと感情を良く表せるものが出て来たからだ。その一つがモダリティだろう。もっとモダリティの事を知りたい、勉強したい、という気持ちになった。
 しかも調べにも言及している。口語短歌で調べの話が出ることはあまり無い気がする。調べに関する論って、文語短歌でも主観的な気がしてあまり納得できないものが多いのだが、この論の、モダリティが調べに与える影響についての部分は簡潔だけど、納得のいくものだ。

⑥「現代短歌評論賞」高良真実「はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る」 これもまた力の入った論だった。現代短歌評論賞のダブル受賞って滅多に無いけど、今年は本当にそれだけの論が並んだと思う。高良の論では、口語も文語もとても細かく分析されている。
 まず(1)「口語の不可能性」で〈口語短歌は書かれた時点ですでに口語ではない。(…)書かれたものは、口語(話し言葉を元にしたいわゆる言文一致体)かもしれないが、口語(発話)そのものではない。〉と分析する。ここでの口語は現代語という分類ではなく、話し言葉としての口語だろう。
 (2)「言文一致と普通文」はとても示唆に富んでいる。俵万智の短歌を読んで「自分でもよめそう」と多くの人が思ったエピソードを紹介し、与謝野晶子が鉄幹の歌を読んで「之なら自分にも作られないことは無からう」と思ったエピソードを紹介する。これは上手い対比だ。

⑦次に、高良は与謝野晶子の文章の引用について分析する。
 〈注目すべきは、「私の歌に用ひる文章語は現代語の一種です」と語っている部分だ。晶子の語る文章語、すなわち近代短歌における文語は、「現代人の感情と思想とを盛り容れる、明晰に現代人に理解される言語」とされている。ここで言われる「文章語」は、一般に「普通文」と呼ばれている。明治期の文章において普通文は文字通り「普通」に用いられるものであった。〉 このあと小説を例に取りながら文語(普通文)と口語(言文一致体)の使われる割合を論じた研究を紹介する。ここは本当に細かくて読み応えがあった。
〈確かに普通文は、口語に比べると古いものに見えるかも知れない。しかし江戸時代の擬古文や、公文書などの文体である候文に比べれば、新しいものと言えよう。〉 これは私自身が自分の論を書いていた時に思考を進める障壁となった部分だ。高良の論を読んで、新たな考察の視点を得られた。

⑧さらに(3)「俗語革命の影」で〈和歌革新運動を主導した与謝野鉄幹・正岡子規は、雅語の領域にある和歌を普通文の領域に連れだそうとしていた。〉漠然と俗語ではなく、普通文。ここで榊祐一の論を引用した後、〈「音声中心主義的」に語られる傾向の強い言文一致体は普通文に古い言葉としての印象を与え、俗語としての役割を見えにくくしてしまう。そして、俗語革命の進展を言文一致の過程と同一視してしまうことも、普通文・言文一致体の対立軸を際立たせ、普通文の持つ俗語としての役割を見えにくくしてしまう。〉ここ、興味深い。もっと知りたい、調べたい。
 次に挙げられている、茂吉の子規の歌に対するエピソードも、晶子の鉄幹の歌に対するエピソードと重なってて効いていた。テレビが口語短歌を受け入れられる素地を作ったという指摘も面白い。何より、普通文・言文一致体についての考察、これから史的な観点で資料を読む時に必ず頭に置いておきたい。
 示唆に富んでいて、内容的にすごいボリュームだ。とても刺激を受けた。でも著者的にはこれでも相当書きたいことを抑えているのでは?まだまだ膨らませられるネタがあるように思った。

⑨「現代短歌評論賞」竹内亮「機能的(対話の)口語短歌」について  
 文語口語についての窪田章一郎の論を紹介している。 「古いままの文語を使用しているのではない。……動詞、助動詞、形容詞の語尾の活用を文語でおこなっていることだけが口語と異なっているのであって、語彙のほうは古い雅語を捨て、現代語として話され書かれているものを用いることにしている。」
 指摘している文語のあり方は今も同じと言える。それを窪田章一郎と同じように「古いままの文語を使用しているのではない」と自覚出来ていれば問題無いと思う。こうした一般的な文語口語の区別ではなく、岡井隆に見られる文語口語の区別を竹内は指摘する。
〈「だれかに話しかける文体・対話調・会話体」であることが、時に、文法的な文語・現代語の別を超えて口語らしさを感じさせると岡井がいうことは注目すべきと思われる。〉さらにそれが国語学者時枝誠記の枠組みに基づくと指摘する。

⑩〈現実の会話と文章とを比較すれば、会話の方が文脈に依存し、(…)短歌のなかの「対話調」は岡井も指摘するように純粋な話し言葉の筆記ではなく、あくまで書き言葉のなかのバリエーションだが、それでも「対話調」の歌は相対的に文脈依存的なのではないかと考えられる。そして、その文脈依存的であるところと口語らしさに一種の関係があるのではないかという仮説が考えられる。〉
 この辺りすごく面白かった。もう文語対口語よりも、口語のなかの話をもっと細かくすべきで、対話調というか発話に近づけたものとそうで無いものの比較が必要な時期に来ていると思う。
 今回の竹内の論は、ずっと岡井隆の論を検証する形で書かれているが、より広い範囲に敷衍しようというところで抄録が終わっているので、もっと続きが読みたいと思った。

2022.11.6.~10.Twitterより編集再掲