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『ねむらない樹』vol.5 2020.8.

①「座談会 コロナ禍のいま短歌の私性を考える」宇都宮敦・斉藤斎藤・花山周子
斉藤〈「わたし」には二種類ある。一人称的な「わたし」と三人称的な「わたし」です。〉
    この考察はいいとして、これだけだと、読まれる対象としての三人称についての話が抜けてしまう。対象としての三人称について考察することは、一人称を考察することにも繋がるのだ。小説の語りやゲームで使われる「一人称視点」や「三人称視点」(あるいは「神視点」)がそのまま短歌の詠みや読みに当てはまるのかどうかの検証も必要ではないかと思った。

②斉藤斎藤〈近代短歌のような、視点を今ここに固定するような書き方は外国の言語や文学をどうにか日本語に翻訳するため、現代語と万葉語を無理やり接続したりして苦労をしながら作られた、日本語としてはかなり不自然な文体なわけで。〉
 何のことを指しているのだろう。斎藤茂吉などのアララギの方法のことだろうか。だとしたら「外国の言語や文学をどうにか日本語に翻訳するため」という部分が分からない。明治二十年代の和歌改良運動のことのようにも読めてしまう。

③大辻隆弘「「私性」という黙契」〈短歌の「私性」とは、第一義的には、短歌を読むことに伴って立ち現れるイメージのことであって、生身の作者とは無関係なのである。〉
 読者の側から見た「私性」について。無関係は言い過ぎと思うが、作者≠私性ということだろう。 
 大辻は「私性」とは〈「登場人物」「視線の主」「言語構築の主体」(…)この三つが混然一体となった人物イメージを曖昧な形で指し示していることが多い。〉としている。大体分かるのだが…。この「登場人物」というのが、もう一つ腑に落ちない。一人称、三人称が気になっているからかもしれない。

④大辻隆弘〈「私性」という黙契は、三十一音で「人間」を描出することを可能にし、短歌を近代文学に引き上げた機能的なパラダイムだったのである。〉
 近世和歌には無かった観念だということだな。しかし、「私性」が過去のことだと惜しむような論調に感じられたのは気のせいか?

⑤荻原裕幸「作中主体って何?」〈作中主体という語は、ごく自然なものとして、口を衝いて出て来たことばだった。それが多少なりとも拡散して、一人歩きをしたのだとしたら、例の、現代短歌のニューウェーブ、と同じことである。〉
 この論で荻原は自分のツイートも引きながら、作中主体という語を使い始めたのは自分だと言っているようだ。本当だろうか。論の最後で、自分と同じようにおのずと使い始めた人もいるのではないか、と添えてはいるが。ちょっと調べたくなってしまうな。

⑥井上法子「かぎりない「わたし」たち」茂吉が子規の歌をどのように評していたかを、書簡やエッセイから分析している。初めて読んだ書簡もあり、興味深かった。ただ、そうした資料を読み込んだ評論でありながら、結論がその資料ならではのものになっていない。
〈作者のプロファイルを重視しないこの読み方は、無限の・・・かぎりない表現の海へと身を乗り出す行為である。(…)透きとおった読み/詠みの可能性を、「わたし」たちは持っている。〉
 茂吉の子規受容の話から突然、ざっくりした結論に飛んでいる。もったいないと思った。

なにをあげても此れ欲しかつたと云ふ子にて抱へあげたり夏草のなか 光森裕樹 可愛いなあ。何をあげても喜んでくれる。自分はずっとこれが欲しかったと思うのだろうなあ。大人でも稀にいる。これが欲しかったのだと心から言ってくれる人。

だましぶねを折りながら解く騙すといふ言葉の意味と其の用ゐかた 光森裕樹 折り紙のだましぶねを子供と一緒に折っている。そして船の構造を教え、それが一瞬で変わることを教え、幼い子供に騙すという言葉を教える。親として。もっと手痛い騙しに備えて。

眼つむりてゐる間に舳先が帆に変はる感染経路も分からぬままに 光森裕樹 上句は前の歌から引き続きだましぶねのこと。あっという間に舳先が帆に変わる。下句、今まで何でも無かった人が感染者に濃厚接触者に変わる。どう感染したかも分からぬままに。上下のあざやかな転換。

⑩「学生短歌会」ひとびとのような顔して受けとったポケットティッシュは花柄でした 岡田康太(上終歌会) 初句二句が上手いと思った。自分は個を持った人間であると自覚しつつ、「ひとびと」の一員に擬態しているのだ。その後、ポケットティッシュを見てみたら、という瞬間。

 誰と誰が同時期に大学短歌会で活動していたかは知っておいて損の無い情報だ。結社の所属などと違って目には見えないものだから。

⑪寺井龍哉「時評」『短歌研究』2020年6月号で穂村弘が永井祐について述べた文を引いて〈気になるのは「先見性」とか「未来の暗示」という穂村の言い回しである。結果として永井の表現が支持を得ることになったことから、言わば逆算して、あたかもそれが必然であったかのように述べてしまっては、そうでなかった多くの試行を見逃すことになりはしないか。〉
 後出しジャンケンのようになってしまうということだろう。また、寺井は同じ論の穂村が笹井宏之について書いた文の不分明さも突いている。時評として的確だと思った。

2020.6.29.~30.Twitterより編集再掲