現代短歌評論賞受賞作・候補作を読む          (後半)【再録・青磁社週刊時評第六十六回2009.10.13.】

現代短歌評論賞受賞作・候補作を読む(後半)   川本千栄

 ただ、西欧的な二元論が果たして日本の文学、特に短歌に適用し切れるのか、論者はそれを自明のものとし過ぎているのではないか、という点は疑問に思った。選考委員の一人森井マスミが「日本人の伝統として自然を写したときに、自然に一体化してしまうような感性について、論じられていない。西欧的な自然主義や散文とは違う、短歌における自然というものの独自性ですね。その部分への言及がない。」と述べていたのに同感である。
 それらの疑問点は置いても、論の立て方や運び方が上手く、また読んだ者を思索に誘う、好評論であった。また、既に発表されていることだが、山田航は今年度の角川短歌賞も受賞したとのことである。作品の載った号はまだ発売されていないが、読むのが楽しみだ。久々に論作両方の力量を併せ持った期待の新人の出現である。
 受賞作も面白かったが、候補作にも心惹かれるものがあった。一つは助野貴美子バチェラー八重子について論じた文である。「八重子にとっては、アイヌ人として存在の基盤そのものの自然と〈われ〉との距離は見られない」という一文に立ち止まった。山田の論は自然と人間を二分法で捉える視点であったが、助野の論じるバチェラー八重子は自然と〈われ〉との間に距離が無いのだという。これは八重子がアイヌであったゆえか、あるいはアイヌ以外の人々にもそうした歌があったのか、などもっとこの点を突き詰めたものを読みたいと思った。
 もう一つは「月を愛した少女(おとめ)たち」である。比嘉美織は近代少女雑誌投稿短歌という非常に特殊な分野を論じている。二十世紀前半に出された少女雑誌に、十代二十代の少女たちが投稿した、月を詠んだ歌を時代を追って分析している。この視点、この素材、どれをとっても独自性が高く、圧倒的な面白さがあった。乙女たちが月を見上げて詠んだ歌には古典和歌にも通じる美意識が感じられるが、また同時に、否応も無い戦争の影や近代的価値観も入り込んでくる。誌面では抄出でしか読めず、選考委員の座談会では、論として不要な部分や、歌の解説に物足りない部分があったということだが、この個性的な論者に、貴重な資料を駆使した評論を、今後益々多く書いて欲しいと願っている。
 現代短歌評論賞は歌壇唯一の評論の賞である。私は、短歌というジャンルが文学の世界で生き残るためには、適切な評論が不可欠だと思っている。それゆえ、毎年この賞に注目しているし、一層の活性化を望んでいる。

(了 第六十六回2009年10月13日分)

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